日曜美術館「棟方志功 板の生命を活かす」(2023.10.8)

大胆な構成の板画(はんが)で世界を魅了した棟方志功(1903-1975)の生誕120周年を記念する大回顧展「メイキング・オブ・ムナカタ」が、東京国立近代美術館で開催中です。
日曜美術館では、展示されている作品を棟方本人の言葉とともに紹介しました。

2023年10月8日の日曜美術館
「棟方志功 板の生命を活かす」

放送日時 10月8日(日) 午前9時~9時45分
再放送  10月15日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
朗読 平泉成

海外で数多くの賞に輝き、“世界のムナカタ” と呼ばれた版画家、棟方志功。版木すれすれに眼を近づけて猛烈なスピードで彫っていく棟方。自らの作品を、「版画」ではなく、板の声を聞き、板の命を活かす「板画」だと宣言した。番組では、棟方志功の代表的な版画作品を、棟方自身の文章によって紹介しながら、「白と黒」「裸婦」「文字」などのキーワードで棟方作品の特徴を浮かび上がらせていく。
日曜美術館ホームページより)

出演
原田マハ (作家)
石井頼子 (棟方志功研究家・棟方志功の孫)
三井田誠一郎 (版画家・東京藝術大学教授)


棟方志功が板画にこめたもの

20代のはじめに洋画家を目指して青森から上京した棟方志功が版画家に道を定めたのは、29歳の時だったそうです。
世界のムナカタへの第一歩でした。
棟方の作品は、過去の日曜美術館「自然児、棟方志功~師・柳宗悦との交流」(2020.7.26)でも紹介されました。
今回の展覧会にも、この時紹介された作品の多くが出品されています。

白と黒

棟方の板画は、墨の黒と紙の白の2色から始まりました。
白もただの空白ではなく「命」が染み込んだ白でなければならない、と棟方は語っています。

《萬朶譜》1935 《大和し美し》1936

版画の道に進んだ棟方がまず挑戦したのは、筆で描く絵とは違った版画ならではの表現を追究することでした。
初期の作品である《萬朶譜》で棟方は、植物の姿を白と黒だけで文様のように表現しています。
その翌年に制作された《大和し美し》は絵と文字でヤマトタケルの叙事詩を表現した板画を、絵巻物のように連ねた構成です。
原田マハさんは、《大和し美し》の「文字なんだか絵なんだかわからない」自分の中の叫びをぶつけるような迫力を「ブリュット(生々しい)」という言葉で表現しました。

《善知鳥》1938

海鳥をとる漁師が死後亡霊として苦しむという能の演目「善知鳥」は、31点の板画による絵巻です。
このころ版画の美しさは白と黒の対比にあると考えていた棟方は、能の幽玄さを「白と黒の絶対性」で掴もうとしたと語りました。
ほとんど白の画面があったと思えば、ほとんど黒の画面があったりもするこの連作に、石井頼子さんは棟方のデザイン感覚を見ています。
計算ではなく感性で作られた白と黒のバランスは、思いもよらない面白みを感じさせます。

《二菩薩釈迦十大弟子》1939

棟方が仏教的なテーマに取り組みはじめた頃の代表作です。
東京国立博物館で見た《須菩堤像》(奈良・興福寺)から構想を得た《二菩薩釈迦十大弟子》は、釈迦の主だった弟子10人と普賢菩薩・文殊菩薩からなる掛け軸12幅の連作。
棟方はこの制作にあたって構想に1年半をかけ、大量の手馴らしの後で一気に彫り上げました。

《二菩薩釈迦十大弟子》は制作から15年以上後にサンパウロ・ビエンナーレやヴェネツィア・ビエンナーレで賞を取り、棟方の名を世界に知らしめました。
三井田盛一郎さんは、当時のヨーロッパでは表現主義(作者の内面を表現しようとする美術)が流行していて、画家たちがこぞって感情を叩きつけるような表現を追究する中に「バリバリ最先端」の作品が登場したように見えたのではないかと語っています。

《華厳松》1944

棟方は民芸運動を通じて、富山県の福光町(現在は合併して南砺市)にある光徳寺の住職(18世 高坂貫昭)と交流がありました。
1941年から毎年福光を訪れ、第2次世界大戦の終戦間際には空襲を避けて一家で疎開しています。

光徳寺滞在中、山に咲くツツジの花からインスピレーションを得て6面の襖に一気に描いたのが《華厳松》です。
松の巨木の周囲をツツジの花が埋め尽くす様子を墨一色で表現した《華厳松》は、棟方の倭画(筆で描く肉筆画)の代表作となりました。
ほとんど寺外で公開されることのなかった《華厳松》ですが、棟方の生誕120周年を記念する「メイキング・オブ・ムナカタ」に出展されています。


裸婦と御仏

棟方の遺した言葉に、
「真っ裸の顔の額の上に丸い星をつければ、もう立派な仏様になってしまう」
というものがあります。
石井さんは仏教の仏様を裸婦の姿で表現した棟方作品から「女性に対しての憧憬の念」を感じて「(棟方は)本質的にフェミニストだと思う」と語っています。
「女の人が好きっていうのもあるかもしれないですけど(笑)」とも…

《鍾溪頌》1945

《鍾溪頌》は福光で制作された大作です。
24の人物(ほとんどは裸婦)が、紙の裏から色をさす「裏彩色」の技法で柔らかく彩られています。
この作品から黒い面に白い線で体の輪郭を彫り込んだ人物の表現が取り入れられ、その後の棟方板画の方向性を定めるものとなりました。

石井さんは黒い人物のボリューム感が白い人物と比べて明らかに強いことを指摘し、棟方はこの「圧倒的な存在感」を推し進めようとしたと考えています。
日本民藝館が所蔵する《鍾溪頌》では、赤く色づけされた肌の黒い人物12点・青く色づけされた肌の白い人物12点が交互に組み合わされて6曲1双の屛風に仕立てられていますが、確かに並べてみると白い人物の方は主張が弱く、黒い人物の背景のように見えます。

《女人観世音板画柵》1949

詩人で仏教研究家でもあった岡本かの子(1889-1939)の詩「女人ぼさつ」は、雑誌『女人芸術』(1928-1932)の創刊号の扉を飾った詩で、不浄な存在とされてきた「女人」こそが「ぼさつ」であると歌い上げた革新的な作品です。
この詩を戦前から愛誦していた棟方は、戦後になって《女人観世音》のシリーズを制作しました。
「女人われこそ観世音ぼさつ」と繰り返す岡本の言葉が、棟方の内面世界と一致したのでしょうか。

「柵」は棟方の板画1点1点を指すときに使われる言葉で、棟方によるともともと巡礼のお遍路さんが寺々に納めるお札のことだったそうです。
作品をひとつひとつ、お札として奉納する、そんな棟方の想いがこめられています。


文字と詩歌の力

棟方は《大和し美し》や《女人観世音板画柵》のように、詩や歌が絵と一体になった作品をたくさん制作しました。
このことについて棟方は歌の力や詩の力が板画の中にあってもらいたい、と語っています。
石井さんによれば棟方は若いころから文学青年で、常に本を手放さない読書家。
文学が体の中に入り込んでいて「言葉から作品が生まれてくる人だった」そうです。

《不来方板画柵》1952

棟方は宮沢賢治(1896-1933)と直接会ったことはありませんでしたが、版画家に転向して間もない時期に「グスコーブドリの伝記」の挿絵を手掛けたことがあったそうです。
棟方は青森・賢治は岩手という違いはありますが同じ東北生まれとして、また仏教思想や故郷の風土に影響を受けた同士として、縁を感じていたのかもしれません。
《不来方板画柵》は賢治の詩「雨ニモマケズ」と仏さま(これは女性ではなく、仏像の姿をしています)を組み合わせたもので、棟方が賢治の弟さんに寄贈した同じ作品が岩手県花巻市の宮沢賢治記念館に所蔵されています。
(「メイキング・オブ・ムナカタ」出展の《不来方板画柵》は日本民藝館所蔵)

《流離抄》1953

歌人・吉井勇(1886-1960)の歌集『流離抄』の作品などをもとにした板画です。
吉井のファンだった棟方は、吉井の歌を大きな声で歌いながら制作したんだとか。
板画《流離抄》のきっかけとなったのは、吉井が棟方の作品を詠んだ
「屛風には志功板画の諸天ゐて 紙漉く家の爐火はなつかし」
が発表されたことでした。
吉井は1945年に当時住んでいた京都から富山県の八尾町(現在は富山市)に疎開していて、その時に訪れた紙漉き屋に棟方も足を運んでいたそうです。

《鍵板画柵》

挿絵や装丁に非常なこだわりがあったという谷崎潤一郎(1886-1965)が、特に好きだった挿絵画家(装丁家)のひとりが棟方だったそうです。
棟方は1946年に『痴人の愛』(再刊。初刊は1925)の装画を手掛けたことにはじまり、谷崎の作品の挿絵・装丁をいくつも引き受けています。
1956年に中央公論社から刊行された『鍵』の挿絵59図も谷崎から指名された仕事でした。
初老の夫婦の性を大胆に描いた谷崎の小説と棟方の挿絵はどちらも話題となりました。
両者に共通する生臭いくらいの色気を上品にまとめてしまう作風が、相乗効果を引き出したのかもしれません。
谷崎もこの挿絵をとても気に入り、座右に置いて眺めていたといいます。


故郷・青森への想い

棟方は1969年2月に青森市から名誉市民第1号の称号を贈られました。
石井さんは棟方の故郷に対する複雑な想いに触れて、世界に名前が知られても故郷では受け入れられていないと感じていた棟方の「片思い」が報われて「本当にうれしかったと思う」と話しています。

《東北経鬼門譜》1937

ゴッホにあこがれて故郷を離れた棟方が、初めて故郷・青森と真正面から向き合った作品を作ったのは、34歳の時でした。
《東北経鬼門譜》は、当時凶作が続いていた(棟方によれば「豊作」という言葉すら聞いたことのない)東北地方を、仏の力で救いたいという祈りを形にしたものです。
6曲1双の屛風に、使われた板木は120枚。
中心に存在する鬼門仏は左右の屛風の合わせ目で体が真っ二つになっていますが、これは自らの身を割る思いで人々を救う強い思いの表れです。

初めて見た時に「これ板画だよね?」「どうやって作ってるか想像できない」と思ったという原田マハさんは、この同年に制作されたピカソのゲルニカに匹敵するか、それをこえるスケールを《東北経鬼門譜》から感じています。

《花矢の柵》1961 《飛神の柵》1968

棟方は50代の後半から、青森を題材にした絵を次々と制作しました。
青森県立美術館が所蔵する《花矢の柵》は、1961年に竣工された青森県庁の正面玄関を飾る壁画の原画です。
4頭の馬にまたがる女性のうち2人は矢を手にしており、文化は南(九州)から北へ向かうという従来の考えに反して、北から南へ撃ち返す命の矢を表現しています。

鮮やかな赤い背景に宙を漂う男女一対の神を表した《飛神の柵》は、東北地方で信仰されるオシラサマ(主に蚕・農業・馬などをつかさどる家の守り神)がモチーフ。
柔和な表情は、人の生活に関わる身近な存在だからでしょうか。

《捨身飼虎の柵》

棟方が亡くなる1年前に制作した《捨身飼虎の柵》は、板画の大作としては最後の作品です。
(なお棟方が生涯最後に制作した板画作品はワシントン大学で公開制作した《ベートーベン・チェアーの柵》で、棟方志功記念館が所蔵しています)
《捨身飼虎の柵》の白と黒に金で彩色された画面を遠目に見ると、何かの文様が揺らいでいるように見えます。
目を凝らすしてよく見ると、お釈迦様が前世である薩多太子が、飢えた虎の母子を救うために自分の体を与えたという仏教説話の一場面(『金光明経』が描かれています。

板の命・木の命に自らの命を合わせて板画に注ぎ込み続けた棟方の最後の大作が、他者に命を与える物語だったのは、なんだか暗示的な気がしますね。
棟方はこの翌年、肝臓がんのため72歳でなくなりました。


「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」(東京国立近代美術館)

富山展(3月18日~5月21日)・青森展(7月29日~9月24日)は終了しています

東京都千代田区北の丸公園3-1

2023年10月6日(金)~12月3日(日)

10時~17時 (金・土曜日は10時~20時)
※入場は閉館の30分前まで

月曜休館(祝日は開館し、翌平日休館)

一般 1,800円
大学生 1,200円
高校生 700円
中学生以下 無料
障害者手帳等の提示で本人と付添者1名まで無料

公式ホームページ

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