10月1日の日曜美術館は、6月22日に亡くなった洋画家・野見山暁治さんの追悼番組です。
小野さんと柴田さんが練馬のアトリエを訪ね、養女で秘書でもあった山口千里さん、東京藝術大学で教えを受けた秋元雄史さんから故人の思い出を聞きました。
また過去にNHKで放送された映像も紹介されています。
2023年10月1日の日曜美術館
「野見山暁治の「宇宙」」
放送日時 10月1日(日) 午前9時~9時45分
再放送 10月8日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
戦後、日本洋画の第一人者として活躍し、今年6月に102歳で亡くなった画家・野見山暁治。太平洋戦争、フランス留学、2度の結婚と死別。激動の人生の中から、自分の目で捉えた人間や自然のイメージを再構成し、大胆な造形と奔放な筆致で描く独自のスタイルを確立した。練馬区にある野見山のアトリエから、これまでに取材した貴重な映像、そしてゆかりのある関係者の言葉を織り交ぜながら、野見山暁治の生涯と画業を振り返る。(日曜美術館ホームページより)
出演
山口千里 (野見山の養子。野見山暁治財団事務長)
秋元雄史 (東京藝術大学名誉教授)
辻惟雄 (美術史家)
野見山暁治とその代表作
炭鉱と言う原風景
野見山暁治さん(1920-2023)は、大正の半ばごろ福岡の穂波村(現在の飯塚市)に生まれました。
父・野見山佐一は炭鉱経営者で、野見山さんは東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学した当初、故郷の炭鉱を描いた作品を数多く制作しています。
若き日の代表作《廃鉱(A)》は、暗い色を使い立体的な構図で描かれ、後年の抽象的な作品に比べると何を描いているのかはっきりと分かる絵です。
出征から終戦まで
1939年に第2次世界大戦が勃発し、1943年に東京美術学校を繰り上げ卒業した野見山さんも軍に召集されました。
出征前に妹を描いた《マドの肖像》(1942)を後から見直した野見山さんは、若い自分の「今日描いてみているものを明日は見れない」「これでいいのか、違うものを描かなきゃいけないんじゃないか」という焦りを感じ取ったそうです。
満洲に派遣された野見山さんは、その地で肺病を患って入院し帰国。
福岡の病院で、1945年の終戦を迎えました。
同級生は多くが戦死し、野見山さんも発病がなかったら満洲で戦死していたかもしれません。
このことは長らく心の傷として残り、後の無言館設立にもつながったようです。
フランス留学
1952年、野見山さんはフランス政府の私費留学生として渡仏。
パリで暮らし始めて3年目には、日本に残してきた陽子夫人(旧姓内藤。1948年に結婚)を呼び寄せることもできました。
《パリー・セーヌ河畔》(1956)はその頃の作品です。
1956年に野見山さんは官展のサロン・ドートンヌ会員になりましたが、同じ年に癌に倒れた陽子夫人が29歳の若さで亡くなります。
ショックを受けた野見山さんは、一時期絵が描けなくなったそうです。
その後パリ郊外のライ・レ・ローズにアトリエを移し(もとは彫刻家・高田博厚のアトリエだったのを譲り受けたそうです)、野見山さんは再び絵筆をとります。
この頃の作品《岩上の人》(1958)はより大胆なタッチで抽象的に描かれ、絵が変わりはじめたことをうかがわせます。
練馬のアトリエ
1964年に帰国した野見山さんは東京の練馬にアトリエを構え、以後60年近くそこで制作を続け独自の作風を追究しました。
帰国から4年後に描かれた《岳》1968は、画面の中で色と形がうごめいているような作品。
タイトル通りなら高い山の絵のはずですが、言われてみれば山があるのかな? という雰囲気です。
野見山さんはイメージのもとになった対象をそのまま描くのではなく、そこから得た印象をさらに膨らませていく画家だったそうです。
筆や絵具もそのまま残されているアトリエには着想元になった新聞の切り抜きがストックされていましたが、野見山さんにとっては画質の良い図よりも形がはっきりしない図の方が良かったそうです。
絵を描くことについて、自分の中にある「これ」というものを引っ張り出してみんなに見せようとするのだと語った野見山さんは、その得体のしれないものを「宇宙の力」と語ったこともありました。
糸島のアトリエ
野見山さんは帰国後に、中国から引き揚げて福岡県でクラブを営んでいた女性(武富京子)と再婚しました。
(中学校の後輩だった実業家・江頭匡一の紹介だったそうです)
東京と福岡の遠距離結婚でしたが、福岡の糸島市にもう一つの自宅兼アトリエを建て、2001年に京子夫人が亡くなるまで、夏の間は一緒に過ごしていました。
姫島を望む海を前にした環境で、野見山さんの自然を見る眼は大きく変わりました。
代表作のひとつである《ある証言》(1992)は、風速50mという大変な台風が来た時、ベランダに出していた大きな甕が歩き出すかのように移動してきたと思ったら一瞬にして破裂した…という衝撃の瞬間を絵にしたもの。
自然の中に潜む恐ろしい存在が顔を出した瞬間を証言しています。
野見山暁治の絵画以外の業績
野見山暁治のパブリックアート(ステンドグラス)
2007年、87歳の野見山さんは公共の場に置く作品(パブリックアート)に挑戦しました。
地下鉄「明治神宮前」の駅に設置された《いつかは会える》は、野見山さんの原画をもとにしたステンドグラスの作品です。
日曜美術館では、ステンドグラス作家の中野竜志さんと相談しつつ、ガラスに絵筆を入れる映像が紹介されました。
野見山さんは、油絵の具とは違って色同士が交じり合わない、ステンドグラスならではの効果を楽しんでいたようです。
野見山さんのステンドグラスは、日曜美術館で紹介された2点(東京メトロの明治神宮前と青山一丁目に設置)をふくめ、全国に6点設置されています。
《いつかは会える》(東京メトロ明治神宮前、2008設置)
《海の向こうから》(JR博多、2011設置)
《そらの港》(福岡空港・国際ターミナル、2013設置)
《あしたの空》(長崎みなとメディカルセンター、2016設置)
《還ってくる日》(飯塚市新市庁舎正面玄関、2017設置)
《みんな友だち》(東京メトロ青山一丁目、2020設置)
野見山暁治と無言館
2020年8月9日の日曜美術館「無言館の扉 語り続ける戦没画学生」で紹介された、戦没した画学生の作品を保存・展示する無言館(1977)には、野見山さんも深くかかわっています。
1952年、フランス留学に向かう道中の野見山さんは、戦争で亡くなった美術学校の学友たちを思い出して「皆があれだけ(フランスに)憧れたのに俺だけが行っていいのか」と、申し訳ない気持ちになったといいます。
帰国後に学友たちの遺族を訪ねた野見山さんは、全国の遺作を集めて画集『祈りの画集―戦没画学生の記録』(日本放送出版協会、1977)を出版。
無言館設立のきっかけになった画集です。
野見山暁治のエッセイ
練馬のアトリエにはエッセイなどの原稿を書くための書斎があり、野見山さんが亡くなる直前まで書き続けていた「アトリエ日記」(全6冊。清流出版より3冊、主婦の友社より3冊刊行)の原稿が置いてありました。
(野見山さんは原稿用紙に万年筆のクラシックなスタイルを貫いていました)
文章から野見山さんのファンになった人には、本業が画家であることを知らず「先生は絵もお描きになるんですね」と言った人もいたとか。
日曜美術館では俳優の町田圭太さんによる『アトリエ日記』の朗読とともに、100歳を記念する展覧会を目指した映像が紹介されました。
野見山暁治の人となり「奇跡のような方」
野見山さんは1968年に東京藝術大学の助教授に就任し、以来13年教壇に立っていました。
2021年に日本橋高島屋などで開催された「100歳記念 すごいぞ!野見山暁治のいま展」をキュレーションした秋元さんは、東京藝術大学で野見山さんの教えを受けています。
野見山さんは生徒と対等の立場で、作品を誉めも貶しもしない先生だったそうです。
東京芸術大学の一次試験を、技術力を見るデッサンから表現力を見る油絵に変更する受験改革も行いました。
秋元さんによると、当時の同級生たちが集まったとき「野見山先生の受験改革が無かったら、自分たちは美大受験に通っていなかった」という話になったことがあるんだとか。
必要ないと思えば通例を変えてしまうやり方は、自らの作品にも適用されています。
野見山さんは生前から自分の名前を冠した記念館は建てない方針で、かわりに全国の国公立美術館に寄贈することで個人美術館の維持・管理の手間を省き、どこにいっても野見山の作品が見られるようにしたそうです。
山口さんいわく、今のところ「北は北海道から南は枕崎(鹿児島県)まで」52館に221点の作品が寄贈されています。
自由奔放な絵を描いたイメージからすると、美術教育の改革や個人美術館の負担などに気を回すのは意外な気がしますが、実際の野見山さんは他者のことをよく考える人だったようです。
小野さんはそんな野見山さんを「自分は自由で、周りの人にも自由を与えた」「奇跡のような方」と語りました。