施設整備のために2020年10月から長期休館していた東京上野の国立西洋美術館は、
2022年4月にめでたくリニューアルオープンをむかえました。
今回の改装では前庭の日本庭園が撤去され、1959年の開館当初に近い姿になっています。
国立西洋美術館と建築家ル・コルビュジエ(設立の経緯)
国立西洋美術館の竣工は、戦後間もない1959年のことでした。
第二次世界大戦(1939-1945)中、敵国人財産としてフランスに差し押さえられていた
松方コレクションの収蔵・展示のために作られた、西洋美術の専門美術館です。
松方コレクションの「寄贈返還」
明治の元勲である松方正義の三男で
川崎造船所(のちの川崎重工業)の初代社長・松方幸次郎(1865-1950)が
個人で収集した西洋美術のコレクションです。
総数およそ1万点におよぶコレクションは
日本・イギリス・フランスに分かれて保管されていました。
このうち、日本にあったコレクションは
関東大震災や金融危機による会社の業績悪化で1928年に松方が引責辞任した際、
会社の立て直しのために提供され、売り立てに出されて散逸し、
ロンドンにあった約300点は、1939年に倉庫の火事で焼失。
パリのロダン美術館に預けられていた約400点は、フランスに接収されます。
1951年のサンフランシスコ平和条約締結の際、
当時の首相だった吉田茂が返還を要求し、日本に寄贈返還されることになりました。
一度フランスの国有財産となったため「寄贈」という形になったのを、
日本では「寄贈返還」として発表したそうです。
ル・コルビュジエへの美術館設計依頼
松方コレクション「寄贈返還」の条件のひとつが、
コレクション公開のための美術館を新設することでした。
敗戦から何年もたっていない時期ですから財政は苦しく、
不足分は寄附で賄うことになりました。
財界や画壇からの協力で募金や協賛展覧会が行われ、
集まった金額は当時のお金で1億円。
これに国からの予算5千万円が加えられ、工事の予算となりました。
20世紀を代表する建築家ル・コルビュジエに
外務省から設計が依頼されたのは、1954年4月。
ル・コルビュジエは同年の11月2日から9日まで日本に滞在し、
建設予定地の視察・調査を行ったほか、鎌倉・京都・奈良を訪れたそうです。
ル・コルビュジエが日本を訪れたのは、これが最初で最後となりました。
1956年7月には基本設計案が、
1957年3月には実施設計案が日本に送られます。
建築家本人が現場にいなくて大丈夫なんだろうか? と思いきや、
ル・コルビュジエの海外作品(つまりフランス以外です…念のため)は
彼の計画した原型に沿って、現地にいる弟子や賛同者がその国の実情や
風土に合わせて細部を調整し、建物を完成させる方法で作られるそうです。
(建築の世界では当たり前なんでしょうか?)
日本でも、ル・コルビュジエのアトリエで学んだ
前川國男(1905-1986)、坂倉準三(1901-1969)、吉阪隆正(1917-1980)の
3人の弟子が、実施設計・工事監理を行っています。
国立西洋美術館が世界遺産に指定された理由―コルビュジエ建築の特徴とは?
ル・コルビュジエの構想が弟子たちの手で形にされた国立西洋美術館には、
19世紀以前の様式主義に反抗して「住宅は住むための機械」と主張した
ル・コルビュジエの思想が、あちこちに取り入れられています。
無限成長美術館・モデュロール・ピロティ
基本コンセプトとなる「無限成長美術館」は、核となる中心の部屋
(西洋美術館では、常設展の最初にあたる「19世紀ホール」)を
展示室が四角い螺旋状に取り巻いている構造で、
来館者は中心から外側に向かって展示室を進みます。
コレクションが増えるとその都度外側に展示室を足して
グルグルと発展していく仕組みなので、
理論上は(土地さえあれば)無限に成長できることになります。
(実際は、美術館の裏に新館を増築する方法をとりました)
ほかにも、西洋美術館のさまざまな寸法に採用されている
(柱の間隔・天井の高さ・前庭の石畳・外壁を飾るコンクリートパネルなど)
「モデュロール」(人体のサイズを基準にして建築の寸法を決めるルール)、
建物を柱で持ち上げて、地上階に屋根のある吹き抜け空間を作る「ピロティ」など、
あらゆる場所に建築家の哲学を見ることができます。
特にピロティは、多くのル・コルビュジエの作品で見られる重要な構造で、
西洋美術館の開館当時は現在の3倍の広さがあり、
彫刻の展示などもされていたそうです。
世界遺産「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」への登録
ル・コルビュジエの特徴が強く出ている国立西洋美術館の建物は
国内外で重要な建築物と評価され、
「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」
のひとつとして、第40回世界遺産委員会(トルコ・イスタンブール)で
世界遺産に登録されました(2016年7月17日)。
国立西洋美術館がリスト入りした理由は、
- 「無限成長美術館」のプロトタイプを実現していること
- ル・コルビュジエ建築の日本における受容を示していること
- 近代建築運動の国際化の家庭を証言する存在であること
といった点が評価されてのことです。
「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」は
ル・コルビュジエの建築の中でも傑作とされるものを集めて
世界遺産リストに登録したもので、
- ドイツ 1件(ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅)
- アルゼンチン 1件(クルチェット邸)
- ベルギー 1件(ギエット邸)
- フランス 10件(ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸、ほか)
- インド 1件(チャンディガールのキャピトル・コンプレックス)
- 日本 1件(国立西洋美術館)
- スイス 2件(レマン湖畔の小さな家、イムーブル・クラルテ)
の、7か国17資産で構成されます。
大陸を跨いだ資産が登録されるのは世界初のことでした。
国立西洋美術館の日本での指定歴
国立西洋美術館は、日本の建築家や近代建築運動にも大いに影響を与えたことから
国内でも複数の指定を受けています。
1998年には建設省(現在は国土交通省)の設立50周年を記念した
「公共建築百選」に選定。
地域に根ざし、貢献度の高い建築であることが評価されました。
2003年には日本におけるモダン・ムーブメントの建築として、
DOCOMOMO(1988年に設立された近代建築の記録と保存を目的とする国際学術団体)の
「日本におけるDOCOMOMO 100選」に加えられています。
2007年に「国立西洋美術館本館」が文部科学大臣指定の重要文化財(建造物)に指定。
そして2016年には世界遺産登録が決定しました。
なお世界遺産登録についてフランスから共同推薦の打診があったのは2007年のこと。
重要文化財の登録は、「国内法の保護を受けていること」という
世界遺産推薦の必須条件を満たすために急いで行われた、という事情もあるようです。
国立西洋美術館の建築の変遷
2020年10月にはじまった工事の間、
国立西洋美術館を取り囲む仮囲い(建築・工事現場に設置する防護板)には
昔の美術館を写した写真が展示され、過去の姿を振り返ることができました。
(2022年3月14日に撤去されています)
仮囲いは防犯や安全の理由で建てられるものですが、
景観のためにデザインを施したものもあります。
国立西洋美術館の仮囲いには、
2016年(世界遺産登録の年)と1959年(本館開館の年)の姿を上空から見た写真、
2022年の完成予想図、
2022年・2016年・1984年・1959年の本館を撮影した写真が並んでいました。
1959年の写真(西側)
正面から見た写真のほかに、美術館の西側(正面を通り過ぎて右に曲がった先)にもう1枚、
同じ場所から写された写真が。
1959
本館開館時の正門はこの位置にありました。右手に「考える人」、左手の「カレーの市民」を
鑑賞しながら本館へ進むル・コルビュジエの考えた動線を復元します。
当時の入り口がこちら側にある理由は、
ル・コルビュジエが視察の際に自転車で訪れたために
JR駅からの人の流れを意識していなかったせいもあるようです。
ル・コルビュジエの基本計画では、大きな広場を中心にして
美術館のむかいに企画巡回展示館、
JR駅側に劇場を配置した大規模な文化センターが提案されていましたが、
アクセスは公園側からとなっています。
もしも実現していたら、駅からの人波が渋滞して苦情が殺到した結果
上野駅と劇場が合体…なんてことになっていたかもしれません。
(それはそれで面白いと思いますけど)
財政上の問題で美術館以外の施設は見送られましたが、
劇場については本館開館の2年後にあたる1961年、
日本初の本格的なコンサート・ホール「東京文化会館」として実現しました。
東京文化会館を設計した前川國男は、軒の高さを美術館とそろえ、
また国立西洋美術館にならって建物の外壁にコンクリートパネルを採用するなど、
国立西洋美術館との調和を考えた設計をしています。
1979年に本館裏に増築された新館も前川の設計で、
本館と一体化して機能するように作られています。
この増築で、企画展のたびに移動していた松方コレクションの恒久展示が可能となり、
また建物の配置によって、本館と新館に囲まれた中庭ができました。
1959年の写真(正面)
1959
公園園路との連続性をもたせるため、
園路から彫刻や本館を見渡すことができる透過性のある柵で囲われていました。
ロダンの彫刻を屋内と屋外のどちらに置くかについて、
中にしまうことを主張する文部省(現在は文部科学省)と
外に置くことを主張する建築家・美術家たちの間で意見が分かれ、
最終的には《地獄の門》と《カレーの市民》を外に出すかわりに
敷地外周に塀を立てることで合意となりました。
これに対して坂倉準三は、
鉄筋を矢来(竹や丸太を粗く組んだ囲い)のように組んだ柵を立てて対応しています。
1984年の写真
1984
こちら側に売札所を設置していました。
わたしの記憶では「前庭は自由に入れる」のが当たり前だったので、
この写真(しかも撮影から30年もたっていない)は特に驚きでした。
1997年、国立西洋美術館の前庭の地下に企画展示館が設置され、
収蔵庫・講堂・研究部門・管理部門などの設備が充実されました。
チケット売り場がピロティに移転して
前庭が無料開放されたのは、この時だったそうです。
この時期におこなわれた工事としては、免震工事も重要です。
1995年の阪神淡路大震災で、多くの美術館や美術品が被災したことをうけ、
国立西洋美術館でも1996年から1998年にかけて免震工事が行われました。
建物の下に免震機構を入れることで本館全体を免震化したほか、
屋外の彫刻も免震化されました。
このため、以前よりも高くなってしまった彫刻の台と
つり合いをとるために、前庭の南西に盛土された日本風彫刻庭園ができました。
2016年の写真
2016
本館と前庭を含む敷地全体が「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献」の
構成資産として世界遺産へ登録されました。
2007年の暫定リスト入りの打診から3度の推薦を経ての世界遺産登録でした。
新型コロナウイルス感染症の流行による2020年2月29日~6月18日の休館中には、
換気用の空調設備を設置する工事も行われています。
そして2020年10月19日、国立西洋美術館は長期休館に入りました。
2022年の完成予想図
こちらは想像復元図ですが、2022年5月現在、
上野の国立西洋美術館を訪れれば広々とした前庭を見ることができます。
2022
ル・コルビュジエが考えた前庭の構想を復元します。
日本風庭園がもとの石畳に戻され、広々とした空間に。
断絶していた東京文化会館との連続性も復活しました。
建築関係の方々はホッとしているのではないでしょうか。
国立西洋美術館の建築とその変化を感じてみよう
わたしは一応、1997年以前の改装前にも入館したことがあるはずなのですが、
変更前の美術館がどういった様子だったのか覚えていませんでしたし、
写真を確認した後もさっぱり思い出せません。
(チケット売り場が外にあったことを、未だに不思議に感じるくらいです)
写真で見るとかなり様変わりしている国立西洋美術館は
時代や利用者の要望に合わせてこれからも変化していくと思います。
上野公園に立ち寄る際はしばらく足を止めて、
国立西洋美術館の建築とその歴史、さらに未来の姿に
思いを馳せてみるのも楽しいのではないでしょうか。
参考
『国立西洋美術館 公式ガイドブック』2009
藤木忠善『ル・コルビュジエの国立西洋美術館』鹿島出版会,2011