2019年、フランスのフォンテーヌブロー宮殿で発見された30点ほどの美術品。
幕末の徳川幕府から第2帝政期のフランスに送られたこれらの品々を、
フランス在住の雨宮塔子さんが訪ねます。
スタジオでは、日仏合同の調査チームに参加した
三浦篤さんと鈴木廣之さんからお話をうかがいました。
2021年10月17日の日曜美術館
「将軍からの贈り物 フランスの古城で新発見 幕末の美」
放送日時 10月17日(日) 午前9時~9時45分
再放送 10月24日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
フランス歴代君主の離宮・フォンテーヌブロー宮殿で、幕末の日本から皇帝ナポレオン3世に贈られた贈答品が大量に発見された。びょうぶや掛け軸、漆塗りのたんすなど、日本の芸術の粋を集めた豪華な美術品の数々。欧米列強の進出にさらされた東洋の島国は、美術品にどんなメッセージを込めたのか?日本とフランスの幕末美術品外交秘話が明らかに!さらに贈答品は日本の伝統絵画がどのように培われてきたかを物語るものでもあった。(日曜美術館ホームページより)
ゲスト
三浦篤 (東京大学 教授)
鈴木廣之 (東京学芸大学 名誉教授)
出演
雨宮塔子 (フリーアナウンサー)
エステル・ボエール (フランス国立東洋言語文化学院 教授)
髙岸輝 (東京大学 准教授)
日高薫 (国立歴史民俗博物館 教授)
山田久美子 (狩野友信の曾孫)
中尾安久里 (狩野友信の孫)
野田麻美 (静岡県立美術館 学芸員)
フォンテーヌブロー宮殿を雨宮塔子さんと訪ねる
雨宮塔子さんは、1999年にフランスにわたり西洋美術史を学んできました。
この8日前(10月9日 土曜日)に放送されたNHKの番組
「奇跡の宮殿 フォンテーヌブロー 王と王妃の美の舘」(BSプレミアム/BS4K)
でもナビゲーターを務め、
宮殿に沢山の「美」をもたらした王や王妃の足跡をたどっています。
きっかけは「第10回美術史フェスティバル」
フォンテーヌブロー宮殿では、毎年テーマとなる国を選んで
美術史フェスティバル(フランス文化省主宰)を開催しています。
2021年6月に開催された「第10回美術史フェスティバル」
(新型コロナウイルスの問題が無ければ2020年開催でした)
のテーマ国には日本が選ばれ、その準備中にみつかったのが
長らく由来不明だった「謎の掛け軸」ほか30点ほどの日本美術品です。
日仏合同の研究チームによって、これらの美術品は
徳川幕府からフランスに送られた公式の贈答品であると判明し、
特別展「アートと外交」の開催に繋がりました。
フォンテーヌブロー宮殿と文久遣欧使節団―日本美術に込められたメッセージ
今回発見された美術品がこれまでほとんど知られていなかった理由として、
東京大学の三浦篤さんは、これらの美術品が
ナポレオン3世の皇妃ウージェニーの手元にあったことを挙げています。
ウージェニーは東洋美術の愛好家で「中国美術室」や「漆の間」など、
美術品を集めた部屋を作ったことでも知られています。
1870年の第2帝政の崩壊とともにウージェニーが宮殿を去ると、
美術品の由来を知る人もいなくなり、美術品は21世紀まで
いわば「冷凍保存」された状態だったというわけです。
日仏国交のはじまりを彩った美術品《佐野の渡図屏風》
フランス国立東洋言語文化学院のエステル・ボエールさんが
最初に紹介してくれたのは、《佐野の渡図屏風》(狩野春貞房信筆)。
一面に金を貼った上に、藤原定家の
「駒とめて袖うちはらふ陰もなし 佐野のわたりの雪の夕暮」(新古今和歌集)
という和歌の情景を表した作品です。
6曲1隻(6枚のに折り畳める屏風1点)の画面の中、
騎乗した人物などは左3曲に集中し、右3曲には広々とした雪原が広がっています。
この屏風の注目するべきポイントは、何といっても「金」の使い方。
ボエールさんが「フランス人は、こういうものは大好きですね」と言うように
表面も金地に胡粉を使った雪の描写が映えて鮮やかなのですが、
普段はあまり注目されない屏風の裏まで総金箔張りになっています。
普通ならば、和紙に様々な色・模様を刷り出して金銀泥を塗った
「唐紙」を使うところですから、
これは外交のための贈答品として、贅を尽くしたものと考えられます。
《佐野の渡図屏風》は1858年の日仏修好通商条約のさい、
第2帝政の皇帝ナポレオン3世(在位:1852-1870)が
自らのブロンズ像などを贈ったのに対して、
徳川幕府の将軍・徳川家茂(在位:1858-1866)が贈った返礼の品でした。
特定の決め手になった10幅の掛軸
東京学芸大学の鈴木廣之さんのお話では、
《佐野の渡図屏風》の金の使い方とともに「幕府からの贈答品である」との
特定の決め手になったのは、10幅の掛軸でした。
これらは、1962年4月13日のパリでナポレオン3世に謁見した
「文久遣欧使節団」が献上した贈答品の一部でした。
春夏秋冬の彩色が8幅、山水を描いた水墨画2幅の掛軸は、
2つを1セット(2幅対)で飾るようになっています。
幕府の外交文書「続通信全覧 類輯之部修好門」には、
外交のためヨーロッパの君主たちに贈られた美術品の
表装(絵や書の保存・装飾のために布や紙を張ること)が記録されていました。
一般的な掛軸の表装は、大まかに分けて
「天・地」(掛軸の上下の部分)
「中廻し」(掛軸の真ん中で、本紙を囲む部分)
「一文字・風帯」(本紙の上下に貼られる細長い部分・天の部分に下げる2本の帯)
と、3種類の布(裂)が使われます。
5セット10幅の掛軸に使われている布の種類とその組み合わせは、
外交文書に記されていたものとぴったり一致したそうです。
文久遣欧使節団(第1回遣欧使節団)とは
文久遣欧使節団は、日本が初めてヨーロッパに派遣した使節で、
1858年の修好通商条約で取り決められた
新潟港・兵庫港の開港と江戸・大坂の開市の実施の
延期交渉のために派遣されました。
(「翻訳方御雇」のひとりに福沢諭吉がいたことでも有名です)
1862年の1月からおよそ1年をかけてヨーロッパの国々を訪問し、
5年間の延期を取り付けて1863年1月に帰国しました。
掛軸《紅葉に青鳩図》、そして《源氏蒔絵箪笥》に込められたメッセージ
10幅の掛軸の中に、幕府のお抱え絵師(奥絵師)だった
狩野春川友信(1843-1912)の《紅葉に青鳩図》があります。
枝先から赤く色を変えていく紅葉の木と
そこにとまる2羽の鳩を描いた秋の花鳥画ですが、
これは只の美しい花鳥画ではなく、王権を象徴する図なんだそうです。
掛軸を調査した東京大学の髙岸輝さんによると、この絵は
中国北宋の徽宗皇帝が描いた《桃鳩図》を下敷きにしており、
手前にいる鳩は《桃鳩図》の鳩を反転させたもの。
この絵が室町時代に、時の将軍・足利義満の手に渡ったことで、
中国皇帝と将軍をあわせた「王者」のイメージを持つようになりました。
《紅葉に青鳩図》とペアになる《立田紅葉図》(住吉内記弘貫筆)は
紅葉の名所で歌枕としても有名な竜田川の風景を描いたものです。
中国の王権を表す花鳥図と
日本の伝統的な美意識を象徴する風景の組み合わせは、
送り主である将軍が「中国文化を受け継ぐ日本の王者である」との主張であり、
簡単に植民地化されるような存在ではないとの自負がこもっている、というのが
髙岸さんの考えです。
東洋の美術品を好んだ皇妃ウージェニーの
「中国美術室」に飾られている《源氏蒔絵箪笥》にも、
同じような主張が込められています。
これは文久遣欧使節団の帰国後に幕府が贈ったもので、
表面には『源氏物語』の中の21場面を描いています。
これらの図は、人物を描かず道具や場面を配置することで
物語を連想させる「留守居模様」で表現されており、
たとえば「桐壺」なら御殿の一角と桐の木、という具合。
漆器の調査を担当した国立歴史民俗博物館の日高薫さんはこの箪笥を、
当時ヨーロッパへの輸出品として作られていた漆器とは
まったく違う雰囲気を持っていると言います。
家紋や分かりやすい日本の風景などを描いた輸出漆器に比べて、
この留守居模様を理解して楽しむには
根底にある物語を知っていることが前提となっており、やや難解。
日本の文化を象徴する『源氏物語』を取り入れることで文化の高さを示し、
自分たちの誇りや、対等に付き合うべき相手であることをアピールしよう、
という考えがあったようです。
将軍が美術品に込めたメッセージは届いたのか?
鈴木さんはこれらの美術品の意匠を、
幕府が「自己アピールになるだろうと考えたもの」と考えています。
王権の象徴である青鳩、歌枕の竜田川、文化の象徴である『源氏物語』のほか、
謡曲や富士山など「万国によく知られた」題材も採用されました。
「開国したばっかりなのに『万国当然知ってるでしょ富士山』というのはなかなかすごい自負心」
と、小野さんが言うように、幕府が美術品に込めた
プライドと意気込みは大変なものでした。
ただし、三浦さんは
「フランス側がそのまま受け止めたかは、やや疑問に思っています」
と、冷静にコメントしています。
ナポレオン3世が青鳩に王権を感じたか、
皇妃ウージェニーが源氏物語を知っていたか…
たしかに、大いに疑わしいところだと思います。
雨宮さんも、ボエールさんから
青鳩の絵に王権の印が込められている、と聞いた時は
「どこにでしょうか?」と尋ねていましたっけ。
とはいえ、贈答から160年を経た今になって
日仏の研究者たちによってメッセージが読み解かれたのですから、
美術品たちもホッとしているのではないでしょうか。
狩野友信(1843-1912)と、狩野派の伝統的日本美術
《紅葉に青鳩図》を描いた狩野友信は、
狩野派でもっとも格式の高い、奥絵師の家の生まれ。
16歳で幕府のお抱え絵師となり、
18歳で贈答品の制作に抜擢されたエリートです。
友信の父である狩野董川中信(1811-1871)も奥絵師で、
フランスに贈られた贈答品の制作には、父と息子が揃って参加していました。
中信の《山水図》は、遠くに切り立った岩山がそびえ、
手前に松の木2本と東屋のある橋を配置した、中国風の風景画です。
地紙に金泥をひいて白黒の水墨画に華やかさを添えているのは、
幕府からの指示だそうです。
友信の曾孫にあたる山田久美子さんの家には、
これとそっくりな、友信が描いた《山水図》が残されていました。
静岡県立美術館の野田麻美さんが作成した、
狩野派作品2700点以上を網羅するデータベースを調べると、
中信・友信の《山水図》にはさらなる前例があることが分かります。
中国から伝来した古典絵画の写しを集めた
『倣宋元名画巻』(狩野探幽筆)に収録されている山水図は、
遠景の山はもう少し緩やかに見えるものの
東屋を設けた橋などの基本となるパーツはほぼ同じに見えます。
野田さんによると、近代以前の絵画の制作は
古典的な名画の模写からはじまって、
そのイメージを自分なりに取り入れて展開していくのが普通だったそうです。
別の模写帖『唐画流書手鑑』(狩野栄信・養信筆)には、
《紅葉に青鳩図》のもとになった《桃鳩図》の模写も収録されていました。
当時の絵師たちは、優れた作品を土台として
模写を繰り返すことで目を肥やし、腕を磨いていたようです。
使節団がフランスを訪問した6年後の1868年に日本は明治維新を迎え、
幕府は崩壊。お抱え絵師たちも離散します。
明治以降の美術の世界で、狩野派の絵画は、
創造性を失った、オリジナリティーにかけるなどの批判の対象となりました。
狩野友信は東京美術学校で日本画を教えながら絵を描き続け、
明治の末年に生涯を終えました。
日本画も変化していく明治の世にあって、
狩野派の絵を守り続けた友信のあり方は、
自分の描いた絵は日本を代表する贈答品として海外に渡ったのだ
という自負に支えられていたのではないかと、
曾孫である山田さんは考えています。
ナポレオン3世在位中の1867年に
日本が初めて正式参加した第2回パリ万博が開催され、
後のジャポニスムのきっかけを作りました。
印象派に影響を与えた浮世絵版画など
「庶民芸術」としての日本趣味が流行する以前のフランス宮廷では、
狩野派が代表する「公式美術」の日本趣味が流行していたかもしれない…
三浦さんは、そんな事を予想しています。
ところで、文久遣欧使節団はフランスのほかに
イギリス・オランダ・プロイセン・ロシア・ポルトガルを訪問しました。
それ以外の国に贈られた使節もあったわけですから、
今後、他の国でも「将軍からの贈り物」が発見される可能性はある、
という鈴木さんの言葉に、今後の研究に対する期待が高まります。