鏑木清方が描いた美人画の最高峰ともいわれる《築地明石町》に込められた美意識を読み解きます。
没後50年を記念する展覧会で展示されている日本画も多数紹介されました。
2022年5月1日の日曜美術館
「うつくしき理想を描く 鏑木(かぶらき)清方の “築地明石町”」
放送日時 5月1日(日) 午前9時~9時45分
再放送 5月8日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
近代美人画の最高峰と称されながら半世紀近くも行方知れずだった「築地明石町」。3年前の再発見は大きな話題となった。作者は日本画の巨匠・鏑木清方(かぶらききよかた)。名作誕生の舞台裏を探っていくと、明治・大正・昭和と生きた作者の時代や社会へのまなざしと理想とした美のかたちが浮かび上がってくる。戦争の時代にあえて美人画ばかり描いていたという清方。没後50年を迎える今年、あらためて清方芸術の本質に迫る。(日曜美術館ホームページより)
出演
今西彩子 (鎌倉市鏑木清方記念美術館学芸員)
鶴見香織 (東京国立近代美術館主任研究員)
西山純子 (千葉市美術館上席学芸員)
荒井経 (日本画家・東京芸術大学教授)
根本章雄 (鏑木清方の孫)
《築地明石町》1927
鏑木清方(1878-1972)が描く美人画の最高傑作ともいわれるこの作品は、
朝霧の中に一人たたずむ女性が、
着物の袖を掻き合わせながらふと後ろを振りむいた一瞬の姿を描いています。
第8回の帝展で帝国美術院賞を受賞。発表直後から高い評価を受けました。
清方と親しかった作家の泉鏡花(1873-1939)も
「健ちゃん大出来」という文を寄せて祝っています。(清方の本名は健一)
会場で《築地明石町》を鑑賞した小野さんは、
モデルになった江木ませ子さんの写真を見て
「似てなくもないけど、そっくりではない」という印象を受けました。
(江木ませ子さんは清方夫人の同級生。泉鏡花の紹介で清方に弟子入りしたこともあります)
この印象派大正解で、《築地明石町》という絵は
「江木ませ子」という個人を写実的に描いたものではなく、
様々な小説や、明治30年代の明石町といった複数のイメージを組み合わせたもの。
(清方は普段、めったにモデルを使わなかったそうです)
写生を欠かさなかった清方が《築地明石町》のために準備したスケッチには、
風景、顔の部分のアップ、座った姿、
顔の部分が白紙になっている立ち姿などがありました。
立ち姿のモデルは清方の長女だったそうで、
スケッチの横には「清子」の文字が書かれています。
《築地明石町》の発表時、清方は49歳。
帝展の展覧会委員を務めるベテランの画家でした。
委員の作品は賞の対象外が原則ですが、それを覆すほどこの絵が素晴らしかったようです。
その素晴らしさはどこから来るのか…と分析していくと、
清方が49歳まで積み上げてきた学びと試行錯誤の道のりが浮かび上がってきます。
鏑木清方の文学好みと物語
《築地明石町》に描かれている女性は、水色の小紋の上に黒い羽織を着ています。
所どころに見える羽織の裏地は赤。足元は素足に畳表の草履をはき、
髪は洋風の夜会巻きにまとめています。
これらは明治30年代の風俗そのもので、
東京国立近代美術館の鶴見香織さんによると
「そういうのをきちんと描くのが清方の特徴のひとつ」なんだとか。
さらに女性の足元を見ると、水色の柵に絡みつく葉の黄色くなった朝顔が。
朝顔の葉が変色しているということは、季節は秋のはじめ頃。
袂を掻き合わせるような女性のポーズは、秋風の冷たさに寒さを感じたから…と、
一枚の絵の中に豊かな物語が盛り込まれているのも、清方の得意とする手法です。
これらの特徴は、清方の修行時代に身につけたものでした。
挿絵画家としての出発と泉鏡花との出会い
清方が生まれたのは、現在の東銀座にあたる東京の下町です。
父の條野採菊(1832-1902)は戯作者で、明治になってからは新聞人として
「東京日日新聞」など新しい新聞の創刊に携わった人でした。
子どもの頃から曲亭馬琴の戯作「南総里見八犬伝」などに親しんでいた清方は
元々文芸を仕事にしたいと思っていたそうですが
それでは生活が厳しいということで文芸と縁のある挿絵画家の道を選び、
13歳で父親の仕事仲間だった水野年方(1866-1908)に入門したといいます。
競争の厳しい挿絵画家の世界でなかなか芽が出なかった清方ですが、
23歳になった1901年に5歳年上の小説家・泉鏡花と知り合ったことで前途が開けます。
当時の鏡花はすでに「高野聖」などの作品を発表した人気作家で、
小説「三枚続」の口絵(著作のはじめを飾る一枚絵)の依頼に清方の家を訪れました。
2人は意気投合し、鏡花が亡くなるまで親しく交際したそうです。
鏡花とコンビを組んで多くの挿絵入り本を手がけて大成功をおさめ、
さらに鏡花の文章を絵に起こすことで独自の画風を作り上げた清方は、
のちに《小説家と挿絵画家》(1951)という作品で
自身の転機となった鏡花との出会いを描いています。
出会いからちょうど50年、鏡花の死から12年後のことでした。
日本画家としてのターニングポイント
鏡花との出会いと同じ1901年、
清方はほかの若い挿絵画家たちと一緒に日本画を研究する「烏合会」を設立しました。
漁師町の少年と少女を描いた《佃島の秋》(1904、烏合会第10回展)や
結婚が決まった友人を祝う令嬢たちの園遊会《嫁ぐ人》(1907)など当時の作品は、
同時代の風景や登場人物の髪型・服装などを正確に反映しています。
鎌倉市鏑木清方記念美術館の今西彩子さんが
清方のターニングポイントとなる作品として紹介するのは、
鏡花と並んで熱烈に愛読していた樋口一葉(1872-96)の墓を訪れた時に想を得たという
《一葉女史の墓》(1902)。
大きく描かれた細い月の下、「たけくらべ」のヒロイン美登利が
水仙の造花を手に墓石を抱くようにもたれかかっています。
小説の登場人物や小道具を登場させながら
実際の小説とは違った一篇の物語のような絵画は、
挿絵にとどまらない独自の世界観を創り出す
画家・鏑木清方の登場を予感させる作品と言えるでしょう。
鏑木清方と浮世絵
日本画家の荒井経さんは、《築地明石町》の魅力のひとつに
「緊張感と開放感」をあげています。
顔の表情などは徹底的に吟味してこれぞという線を選んでいる一方で、
手足などはきちんと描きこまず、人物の遠景に見える船はまるでスケッチのよう。
大事なところを押さえたうえであえて描きこまない遊びの部分を残すところに
清方の懐の深さや度量の大きさが現れているんだそうです。
写実的な表現と様式的な部分のバランスが絶妙な《築地明石町》に
清方がたどり着くまでには、長い試行錯誤の時期があったようです。
日本画家としての初期の作品である《曲亭馬琴》(1907)には、
当時の清方が写実表現を追求していた様子がうかがえます。
目が見えなくなった晩年の馬琴が、亡くなった息子の嫁に字を教え
口述筆記によって「南総里見八犬伝」を完成させる場面を描いたこの作品は、
老人のざらざらした肌やほくろから生える毛などがリアルに描きこまれています。
清方はこの絵で日本初の公募美術展である文展に応募しましたが、落選。
試行錯誤の中、新しい表現のよりどころとして見つけたのが
伝統的な日本の美の様式でした。
清方は、鳥居清長の版本をはじめ、鈴木春信や勝川春章などによる江戸浮世絵と
そこに表現された美の世界に引き込まれていきました。
千葉市美術館の西山純子さんは、前後の清方作品について、
必ずしもリアルではない浮世絵の写実を超えた「型」に目覚めたことで、
ディテールにこだわった写実的な絵から、
浮世絵のシンプルな線を取り入れた強い輪郭線を引くようになった、と分析しています。
浮世絵は造形のほか、清方の絵の世界観にも影響を与えました。
浮世絵は、繰り返される日常の幸せや、季節と人の営みが一体となった
調和のとれた世界観が多く描かれています。
その影響をうけたと思われる大正時代の作品
《露の干ぬ間》(1916)では六曲一双の屏風の中で、
朝露が乾かない早朝の庭とくつろいだ様子の女性がひとつの世界を形作っています。
鏑木清方と明治時代
1923年の関東大震災で、東京は壊滅的な被害を受けます。
復興のための都市計画は、江戸・明治の面影を消し去るものでもありました。
昭和になると、清方はかつて身近に会った明治の風俗を
主題として頻繁に取り上げるようになります。
《築地明石町》の舞台である明石町(現在の中央区明石町)には元は外国人居留地があり、
清方にとっては異国情緒あふれる憧れの地だったそうです。
居留地は既になく、残された洋館も震災で倒壊。
清方の思い出の風景は失われていました。
3年後に《築地明石町》の姉妹作として描かれた
《浜町河岸》《新富町》(ともに1930年)にも、
震災で亡くなった火の見やぐら、震災の前まで営業していた新富座など
明治30年代の風景が描かれています。
鶴見さんは、《浜町河岸》に描かれる踊りの稽古帰りの少女(10代)、
《築地明石町》の良家の夫人(20~30代)、
《新富町》の蛇の目傘に雨下駄を身につけて雨の中先を急ぐ新富芸者(30~40代)と、
それぞれ年齢も立場も違う3人の女性が、
同じ時代の同じ隅田川沿いでそれぞれの日常を送る
「何でもない一瞬」の美しさを清方の目指したものと考えています。
1954年のNHKラジオで「戦の絵なんか描く気になりませんからね」と笑い、
明治という「幸せな時代」について語った清方は、
戦時中も時勢に逆らうように、
懐かしい時代の女性の姿を通して美の世界を描き続けました。
終戦の翌年の第一回日本美術展覧会に出品した《春雪》(1946)には
江戸末期の武家の女性を描いています。
孫の根本章雄さんによると
「優しいけれど、これと思ったところは筋を通す人」だったという清方には、
自分の描くべきもの、描くべきでないものについてもはっきりした基準があったのかもしれません。
物語性・線や形へのこだわり・明治への憧憬を注ぎこまれた《築地明石町》は、
間違いなく鏑木清方によって描かれるべき作品でした。
「没後五〇年 鏑木清方展」 東京国立近代美術館/京都国立近代美術館
日本画家・鏑木清方の業績を時代ごとに振り返る回顧展。
公式図録には、根本章雄さんの回想
「歿後五十年を迎えた清方との想い出」が収録されています。
7,8歳のころ、清方の画室で明治の築地の一日を描いた
《朝夕安居》(1948)について解説してもらったエピソードも。
一部作品のキャプションには
清方が一時期制作控帳に書き込んでいた自己評価の点数を表す☆が書かれています。
図録には入っていませんので、後で確認するためには
忘れずに会場で配布されている出品目録をもらっておきましょう。
東京展終了後は京都に巡回予定です(5月27日から)
東京国立近代美術館 (東京都千代田区北の丸公園3-1)
2022年3月18日(金)~5月8日(日)
9時30分~17時 (金曜・土曜および5月1日~8日は20時まで)
※入館は閉館の30分前まで
月曜休館 (5月2日は開館)
一般 1,800円
大学生 1,200円
高校生 700円
京都国立近代美術館 (京都府京都市左京区岡崎円勝寺町)
2022年5月27日(金)~7月10日(日)
9時30分~18時 (金曜は20時まで)
※入館は閉館の30分前まで
月曜休館
一般 1,800円
大学生 1,100円
高校生 600円