日曜美術館「老いるほどに輝く〜最後の文人画家・富岡鉄斎〜」(2024.4.28)

2024年は、明治から大正にかけて文人画を描き続けた富岡鉄斎の没後100年にあたります。
数え89歳で亡くなる3日前まで絵を描き続けたという鉄斎の画業を振り返ります。

2024年4月28日の日曜美術館
「老いるほどに輝く〜最後の文人画家・富岡鉄斎〜」

放送日時 4月28日(日) 午前9時~9時45分
再放送  5月5日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 守本奈実(NHKアナウンサー) 平泉成(俳優)

老いるほどに輝きを増し、80歳代になってからも奔放な筆さばきで数多くの作品を残し、89歳の長寿を全うした文人画家、富岡鉄斎。鉄斎のモットーは「万巻の書を読み、万里の路を行く」。若い頃から和漢の書籍を読み漁るとともに北海道から九州まで全国各地を旅した。今年は富岡鉄斎の没後100年。西洋画が流入し新たな潮流が巻き起こった明治大正時代、孤高を貫いた“最後の文人画家”、鉄斎の姿に紹介する。(日曜美術館ホームページより)

出演
梶岡秀一 (京都国立近代美術館学芸課長)
河野元昭 (東京大学名誉教授)
笠嶋忠幸 (出光美術館上席学芸員)
細里わか奈 (清荒神清澄寺鉄斎美術館学芸員)
戦暁梅 (国際日本文化研究センター教授)


富岡鉄斎とは

富岡鉄斎80代の画賛

富岡鉄斎は「私の画を見て下さるなら画賛から読んでもらいたい」と語ったそうです。
日曜美術館では、現代のわたしたちにはあまり馴染みがない漢文で書かれた画賛の一部を現代語で紹介してくれました。

《渓居清適図》(86歳)

俗世を離れた理想郷を描く山水画は、鉄斎が生涯で最も多く描いた画題。
清い水の流れる険しい山奥に庵を結ぶ文人の姿があります。

耳は聞こえないし目も良く見えないけど
腕には神様がついている
それで筆を執って絵を描く
86歳になってまだ遊び戯れているのだから
太平のごくつぶしと言われても仕方がない

《瓢中快適図》(88歳)

瓢箪の中にある別世界で悠々と寝そべり、酒を側に読書する仙人の姿を描いています。

思う存分自由な生活を楽しんで
歳のことなど忘れてしまった
世間から引退して悠々自適
書物を枕にのんびり横になって安楽の境地
88歳も長生きしたので
不老不死の仙人など羨ましいとも思わない

「鉄斎こそ日本の文人画の最高峰だと言って過言ではない」と語る河野元昭さんの戯訳は以下の通りです。
(元の雰囲気にはこちらの方が近いかも?)

心のままに生きてきて
年齢なんか忘れてる
自由へ逃れブラブラと
我が天性に任せてる
本を枕にのんびりと
寝るのは至福の一時だ
長生きしたよ米寿まで
仙人なんかうらやまず

《維摩居士像》(89歳)

亡くなった年の作品です。
釈迦の弟子である維摩の姿ですが、鉄斎は「自画像」だと言っていたんだとか。

しばしば戯れに山水を描く
絵が出来上がり無心の境地になって筆を置く
悟りに入って眠るような気持ちだ

文人画家・富岡鉄斎

富岡鉄斎(1836-1924)は、江戸時代後期に京都の商人の次男として生まれました。
若き鉄斎は学問に打ち込んで国学・儒学を学び、勤皇思想を信奉。
同じ志をもつ多くの志士たちと交流しましたが、1858年の安政の大獄で師や友人を多く失っています。
鉄斎は明治維新後にも敬神愛国の思想をもって名所旧跡の復興に尽力。
いくつかの神社の宮司を務め、書や絵を売って神社復興の資金にしたそうです。

鉄斎が教養の一環として文人画(知識人が報酬や名声の為ではなく趣味として描く絵)を描くようになったのは20歳前後のことでした。
以来生涯で1万点を超えるともいわれる作品を残した鉄斎ですが、絵はあくまでも余技で本分は学者だと考えていたようです。


富岡鉄斎の画業と「万巻の書を読み万里の路を行く」

富岡鉄斎の旅と読書

鉄斎は20代から40代にかけて九州から北海道まで日本全国を旅し、各地に残る神話の場所・神社・古墳・祭り・風俗を研究しています。
これは「万巻の書を読み、万里の路を行く」という文人の生き方を実践するもので、全国を歩いて接した自然や風俗は鉄斎の絵の中にも活かされました。

鉄斎はもちろん「万巻の書」を読む人でもありました。
寝食を忘れるほどの読書好きで「ついにはそれを絵に描いて娯楽としている」と語ったように、絵を描く時は先行の文書・絵図を納得がいくまで調べてから取り掛かるスタイルでした。
そのため、題材となった地を訪れてから作品を完成させるまで長い時間がかかったものもあります。

1874年におとずれた北海道の風俗を描いた《旧蝦夷風俗図》の屛風が形になったのは22年後の1896年。
ちなみに鉄斎は3週間余りの旅行中にアイヌの集落を訪問して祭りにも参加していますが、この屏風の半分を占める「熊送り」は見ておらず、文書や人に聞いた話などを取り入れて描いたものだそうです。


富岡鉄斎と《富士山図》

各地の名勝を訪れた鉄斎に、特に大きな影響を与えたのが1875年の7月に40歳で登った富士山でした。
当時の旅日記には、だんだん険しくなる道や激しい雨風に苦労しながらたどりついた山頂で御来光を拝み、快晴の中で山頂を一周する「お鉢巡り」をした記録がつけられています。

その23年後、1898年に完成した《富士山図》屛風は、右に遠目に見た富士山の全体図が、左にごつごつした岩が連なる山頂が描かれています。
出光美術館の笠嶋忠幸さんは、鉄斎が山頂を描く時に参考にされたのは江戸時代の絵師・小泉檀山の著書「富岳写真」内の富士図だと考えています。
比べてみれば、火口を挟んで向かい合う巨岩やお鉢巡りをする人々など、鉄斎の富士山と共通点がいくつも見つかります。
とはいえ今にも動き出しそうな…笠嶋さんいわく「筋肉モリモリ」にデフォルメされた岩山は、20年以上前の記憶と書物から得たイメージをを融合させた鉄斎独自のもの。

鉄斎は書物を参考に描く自らの絵を「盗み絵」と呼んだといいますが、むしろ「万巻の書を読み万里の路を行く」を実践した人にしか描けない新境地の絵と言うべきでしょう。


富岡鉄斎の晩年の作品

鉄斎は45歳で京都に定住し、絵と読書に専心する生活を送るようになります。
晩年になると鉄斎の絵はより自由になっていきました。
鉄斎の研究者である戦暁梅さんは、年を取るほど絵の規則・ルールを(場合によっては美意識も)無視して大胆・奔放になり、技巧や人に媚びた美しさを離れた風格とユーモアのあるものになると言います。

鉄斎は画家として高い評価を受けていましたが、西洋美術の影響を受けて近代化する画壇からは距離を置きました。
尊敬する中国の文人政治家・蘇東坡にちなんだ絵や(同じ12月19日に生まれたことを誇り、晩年に「東坡同日生」の印を愛用していました)、ユーモアあふれる人物画、理想郷を形にした山水画など文人画の王道を描き続け、大正の終わりごろに亡くなっています。
亡くなるほんの三日前に描いた《瀛洲僊境図》は、世話になった医師に贈られたもの。
深い山の中に立派な建物があり、その周りでは梅が桃色の花を咲かせています。


富岡鉄斎の展覧会、2024

富岡鉄斎の没後100年後にあたる今年、ゆかりの地である京都では鉄斎の画業を振り返る展覧会が開催されています。
また鉄斎の普及に尽力してきた清荒神清澄寺の鉄斎美術館では、鉄斎がより一層の長寿を祈願して作った「九十落款」のある最晩年の作品を展示します。

没後100年 富岡鉄斎(京都国立近代美術館)

京都市左京区岡崎円勝寺町26-1

2024年4月2日(火)~5月26日(日)
第1期:4月2日~4月14日
第2期:4月16日~4月29日
第3期:5月1日~5月12日
第4期:5月14日~5月26日

休館日
月曜休館 (祝日は開館し、翌平日休館)

10時~18時(金曜日は10時〜20時)
*入館は閉館の30分前まで

一般 1,200円
大学生 500円
高校生以下・18歳未満 無料
*障害者手帳等の提示で本人と付添者1名無料
*母子家庭および父子家庭の世帯員は無料(証明できるものが必要)

公式ホームページ

会期終了後、富山県・愛知県に巡回予定

富山県水墨美術館
2024年7月12日(金)~9月4日(水)

碧南市藤井達吉現代美術館
2024年10月5日(土)~11月24日(日)

没後100年 鉄斎の九十歳落款 (清荒神清澄寺 鉄斎美術館別館「史料館」)

2021年に開催中止した「鉄斎の九十歳落款」展を再開催

兵庫県宝塚市米谷字清シ1番地 清荒神清澄寺
(本館「聖光殿」は長期休館中)

前期: 2024年4月4日(木)~5月21日(火)
後期: 2024年5月30日(木)~7月9日(火)

9時30分~16時30分 *入場は閉館の30分前まで

水曜休館・展示替え期間休館

入館無料

公式ホームページ

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