日曜美術館「朝倉摂がいた時代」(2022.10.9)

舞台美術の最先端に立ち生涯で1600以上の舞台にかかわった朝倉摂は、
変わっていく時代の中で新しいテーマを見つけて挑戦し続けた人でもありました。
日曜美術館では渡辺えりさんと共に
日本画をはじめとする朝倉の画業を振りかえります。

2022年10月9日の日曜美術館
「朝倉摂がいた時代」

放送日時 10月9日(日) 午前9時~9時45分
再放送  10月16日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

日本を代表する舞台美術家・朝倉摂(1922-2014)。その死後、アトリエの物置から大量の日本画が見つかった。それは朝倉が若き日に情熱のすべてを注いだ作品たち。高名な彫刻家・朝倉文夫の長女として生まれ、日本画家・伊藤深水に学び、絵画の道を歩み始める。しかし40代で日本画から舞台美術の世界へ活動を移してからは、生涯画家時代のことを語りたがらなかった。朝倉を慕う演劇人・渡辺えりが、残された作品に迫る。(日曜美術館ホームページより)

出演
渡辺えり (劇作家・演出家・俳優)
富沢亜古 (女優 朝倉摂長女)
菊屋吉生 (山口大学名誉教授 日本美術史)
野地耕一郎 (泉屋博古館館長)
増渕鏡子 (福島県立美術館学芸員)
坂本長利 (俳優)
谷川俊太郎 (詩人)


朝倉摂の日本画

舞台美術の大家である朝倉摂が、
もともと正統派の日本画家だったことはあまり知られていません。
ご本人も舞台美術で活動するようになってからは日本画をばっさり切り捨てて、
展覧会などで作品を求める人が来てもそっけない態度だったといいます。
常に先の事だけを見つめて「過去を振り返るのは大嫌い」と語った朝倉ですから、
あえて過去を振り返る展覧会なんて怒られてしまうかもしれませんが、
興味を持たずにいられないほど魅力的、ということでご勘弁願いたいところ。

今回の案内人・渡辺えりさんは、上京したばかりの若いころから
食費を削って朝倉の舞台を見に行き、
男性社会の演劇界を生きる先輩として心の支えのような存在だったと言います。

初期の日本画
《更紗の部屋》《黄衣》など

朝倉摂は、日本美術界の重鎮である彫刻家・朝倉文夫の長女として
東京の谷中で生まれました。
第二次世界大戦がはじまった1939年に、
歌川派浮世絵の流れを受け継ぐ日本画家・伊東深水(1898-1972)に入門し、
19歳のとき《小憩》(1941)で新文展に初入選。
日本画家として順調なスタートを切ります。
当時の朝倉の作品は、明るい色彩とモダンな構図が持ち味でした。

朝倉の絵を見るのは初めてだという渡辺さん。
3歳年下の妹・響子(後に彫刻家。1925-2016)をモデルにした
初期の日本画《更紗の部屋》(1942)からマチスの影響を感じると言います。
はつらつとした雰囲気で描かれるのは身の回りの人々であり、
戦時中の銃後の人々の姿でもありました。

1945年に日本が終戦を迎えると、
朝倉は新しい時代に合わせた新しい表現を模索します。
当時の手紙の中では、やはり妹をモデルに描いた《黄衣》(1948)について
新しい試みが思うようにいかない心苦しさを語っています。


前衛と社会問題
《働らく人》《女》など

新しい表現を求める朝倉は、より新しく前衛的な絵画を描くようになります。
色使いは暗く重々しくなり、キュビスム的な表現を経てリアリズムへ。
絵のテーマは戦後を生きる貧しい子供や働く母親など社会問題を扱ったものになります。
朝倉はまた、旧態依然とした日本美術界の批判者でもありました。
美術雑誌『三彩』の第30号(1949.5)には、
「前近代的」な日本画界の変革を呼びかける記事を寄せています。
1950年頃から、朝倉は実家を出て下宿生活を始めました。
(父親の周囲を取り巻く権威的で前時代的な環境に対する反発があったようです)

雨の中でたむろする一群の人々を描いた《働らく人》(1952)で、
将来が期待される女流画家に与えられる「上村松園賞」(第3回)を受賞。
1950年代半ばには前衛の仲間たちと全国の炭坑や漁村を訪れて、
同時代の労働者たちの姿を描いた作品も描いています。

一方、新しい思想・新しい画風を追い続けるスタイルは
周囲の理解を得ることが難しかったのか、画壇からは批判も受けました。
共感を寄せた働く人々との意識のずれも悩みの種だったようです。
右手を顔に当てて思案するような人物を墨一色で描いた《女》(1954)は、
渡辺さんが「これ自分ですよね、絶対」というほど朝倉にそっくり。
これからの未来や己の生き方を考えているのかもしれません。


平和へのメッセージ
《日本1958》《日本1958-2》《黒人歌手ポール・ロブソン》など

1950年代の終わりから60年代にかけては、
日米安全保障条約(安保条約)に反対する人々による
安保闘争(反政府、反米を掲げた大規模なデモ運動)がおこなわれた時期です。
朝倉もこの活動に積極的に取り組み、
絵画もよりメッセージ性の強いものになっていきます。

その年の経済白書の序文に書かれた一節「もはや戦後ではない」が有名な
1958年に発表された《日本1958》《日本1958-2》は、
高度経済成長の象徴のような鉄塔や東京タワー、
そして繁栄の下で踏みつけにされる沢山の人々を描いた大作。
渡辺さんはこの絵に込められた思いを「平和への祈りですね」と解釈しています。

1959年7月、ウィーンで開催された第7回世界青年学生平和友好祭に
美術分野の代表として参加した朝倉は、セレモニーで披露された
ポール・ロブソン(黒人の歌手で公民権活動家。1898-1976)の歌に感銘を受け、
《黒人歌手ポール・ロブソン》(1959)を描きました。
晩年の朝倉が「私はポール・ロブソンの絵を描いて日本画をやめたんです」
と語ったほど思い入れが強かったこの作品の翌年にあたる1960年1月、
朝倉たちの想いに反して新安保条約が締結されました。

倉庫にしまわれた絵画たち
《何かが始まった》《トナカイと時計》など

安保闘争をきっかけに演劇人たちとかかわりをもった朝倉が
若い世代による新興の劇団と協力して舞台の世界で活躍するようになったのは、
1950年代半ばから60年代の事でした。
プロレタリア演劇の流れをくむ劇団「ぶどうの会」の舞台に出演した坂本長利さんは、
役者からの要望に臨機応変に対応する朝倉の姿勢に好感をもったと話していました。

この時期の朝倉は、舞台と並行して絵を描いています。
この頃の絵は朝倉の内面を描いたような抽象的なものが多く、
渡辺さんは舞台美術と通じるものを読み取ったようです。

1970年代になると朝倉は絵を発表することをやめて舞台に専念。
《何かが始まった》(1965)や《トナカイと時計》(1960年代後半)など
渡辺さんが「舞台美術にしたくなりますね」「舞台美術っぽい」評価した作品は
多くが物置にしまい込まれることになりました。


朝倉摂の生まれ変わり ― 絵画から舞台へ

泉屋博古館(東京)館長の野地耕一郎さんは、
朝倉が舞台に携わるようになってからの作品を封印した理由を
時代の負債を負わされた人々に共感を寄せながら、
絵の向こう側にいる人々と対等な共感は得られなかった
ある種の「挫折感」と考えています。
そんな孤独を抱えた朝倉は、多くの人と関わりあいながら
ひとつのものを作りあげる舞台の道を選んだのではないかという解釈です。

詩人の谷川俊太郎さんは朝倉について、
偉大な父・朝倉文夫とその家から逃れてきたような印象を受けて
親近感を感じていたと語っています。
(谷川さんの父親は哲学者で法政大学総長などを務めた谷川徹三です)
それでも絵画という平面の世界から舞台という立体の世界に活動の場所を移したのは、
彫刻という立体の世界で大きな業績を残した父親の影響があるのではないかと
谷川さんは考えています。

実際に朝倉が何を考えていたのかはわかりません。
朝倉本人は過去のインタビューで
「(自分の好きなことしかしないので)挫折はない」と語っていましたし、
父親については「(私は)親父の付属品なのかな」と考えてしまうほど
コンプレックスを抱えてもいたようです。

今回、朝倉の絵画を順番に見ていった渡辺さんは、
朝倉の転身や絵画作品の変化から、
過去を振り返って反省ばかりしていても仕方がない、
すべて脱ぎ捨てて一から新しい時代を作っていこう、
という朝倉の意志を読み取り、「脱皮」や「生まれ変わり」にたとえています。

朝倉は画家から舞台美術家に「生まれ変わった」後も、
絵を描くこと自体を止めてはいません。
絵本や小説に挿絵を描く仕事は2000年代まで続けていますし、
当たり前ですが舞台の仕事でデザイン図を描く機会は幾らでもありました。
日課のデッサンも続けていて、本当に絵を描かなくなったのは
91歳で亡くなるわずか半年前のことだったそうです。


「生誕100年 朝倉摂展」(福島県立美術館)

絵画・舞台美術・挿絵と、朝倉の全業績を回顧する初の展覧会。
神奈川県立近代美術館 葉山・練馬区立美術館(東京)と巡回し、
こちらが最後の開催地となります。

福島県福島市森合字西養山1番地

2022年9月3日(土)〜10月16日(日)

9時30分~17時 ※入場は閉館の30分前まで

10月11日(火)休館

一般・大学生 1,000円
高校生 600円
小・中学生 400円

公式サイト

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする