日曜美術館「靉光(あいみつ)の眼」(2021.7.4)

シュルレアリズムなどを取り入れた独自の画風で
画壇の主流を外れながらも将来を嘱望された画家・靉光(靉川光郎)。
38歳という若さで亡くなる前に多くの作品を自ら破棄し、
また1945年8月6日の原爆投下によって
故郷の広島に残した作品の多くが消失しました。
番組では東京国立近代美術館所蔵の《眼のある風景》を中心に、
残された作品から画家・靉光の人生を振りかえります。

2021年7月4日の日曜美術館
「靉光(あいみつ)の眼」

放送日時 7月4日(日) 午前9時~9時45分
再放送  7月11日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

敗戦の翌年の昭和21年、靉光(あいみつ)という名の画家が、上海の兵站(たん)病院でひっそりと亡くなった。日中戦争から太平洋戦争へと続く戦争の時代、多くの画家が戦争画を手掛ける中で、靉光は超現実主義的で幻想的な絵を描き続けた。その代表作が『眼のある風景』である。番組では、多くの謎を秘めた靉光の絵を、近年の科学調査や技法再現もまじえて紹介するとともに、最後は悲劇に終わったその人生を描く。(日曜美術館ホームページより)

出演
岩垂 紅
大谷省吾 (国立近代美術館美術課長)
土方明司 (川崎市岡本太郎美術館館長)
小林俊介 (画家・山形大学教授)


絵との闘争 《眼のある風景》まで

画家・靉光(本名は石村日郎、1907-1946)は
広島県山県郡壬生町(現・北広島町壬生)に農家の次男として生まれました。
大阪の天彩画塾で学び、16歳で画家を目指して上京。
最初の頃は、ゴッホのタッチを意識した《屋根の見える風景》や
黒々とした太い輪郭線がルオーを思わせる《コミサ(洋傘による少女)》など
フランス近代絵画の影響を受けた作品を描いていました。

川崎市岡本太郎美術館の土方館長によると、ルオーと靉光は
画風だけでなく非常に精神的な深い世界を持っている点も共通しているようです。
ルオーはキリスト教を篤く信仰したモラリストとして有名な画家ですが、
靉光も内省的に己と向き合った画家でした。

靉光は、やがてフランス近代絵画の影響を抜け出し、
独自の表現を追求するようになりました。
靉光が26歳の時に結婚したキヱ夫人は、
その毎日は「絵との死をかけての戦いだった」といったそうです。
当時、蝋やクレヨンを溶かして描く「ロウ画」という技法で描いた
キヱ夫人と思われる人物画《編み物をする女》は
日常のワンシーンを描いた作品のはずですが、
ほつれた髪や真っ白く塗られた顔などにはどこか鬼気迫る印象を受けます。
土方さんいわく、この頃は靉光が「方向性を模索した時期」でした。

新たな技法の模索 ライオンの連作

靉光は試行錯誤の一環として、
上野動物園に通ってスケッチをしていたそうです。
特に力を入れていたライオンの連作はを1点を除いてすべて失われていますが、
雑誌『美術』の当時の図版(白黒)や
連作の中で唯一現存する《シシ》(1936)を見ると
だいぶデフォルメされ、
一見ライオンとは分からないような作品だったことが分かります。

靉光の技法を調べた小林俊介さんは、
《シシ》には「グレーズ」という
古典的な洋画の技法が使われていることを指摘します。
薄く溶いた透明な絵の具を「ミルフィーユのように」何層も重ね、
さらに途中で拭き取ったり削ったりすることで独特の深みを出し、
靉光独特の絵肌と「得体のしれない存在感」が生まれました。

このライオンシリーズを経て、靉光の代表作《眼のある風景》が描かれます。

《眼のある風景》ができるまで 赤外線調査の分析結果

《眼のある風景》(1938)は、102×193.5㎝の大画面に描かれた作品です。
形の定まらない褐色の巨大な何か…としか言いようのない不思議なものが
画面いっぱいに描かれ、その真ん中には大きな目玉がひとつ。
この不思議な物体が何なのかについては
ライオンが変形したものだとか、木の根っこだとかさまざまな推測があり、
また目玉についてもどのような意味があるのか議論は尽きないようです。

この絵を所蔵する東京国立近代美術館と東京文化財研究所が
赤外線による調査をおこなったところ、
一番下の層に描かれた形はライオンにも木の根っこにもあまり似ておらず、
目玉が追加されたのは完成の直前くらいだということがわかりました。

国立近代美術館の大谷省吾さんは、この絵は
「具体的な何かの描写とはちょっと違う、手探りで描き始めているんじゃないか」
といい、この茶色い何かは、絵の具を塗り重ね削り取る作業を
繰り返す中で自然と形をもったものと考えています。

キヱ夫人によると、四方に黒い布をはって光を遮断した部屋に一日中こもり、
時にはどうしても筆が進まず2か月も絵と睨みあい、
「絵と対決」していた靉光が
「グチャグチャのドロドロの、不思議な塊と何か月も戦って」いた時、
いつの間にやら主体と客体が逆転して
自分が見つめているはずの「絵に見つめられている」と感じた。
その結果、実存となった「何か」に目が開いて完成したのが
《眼のある風景》だったというのが大谷さんの推測です。


戦争と靉光

戦時色が濃くなるにつれて芸術界への締め付けも強くなり、
シュルレアリスムの画家や美術批評家は弾圧の対象になりました。
靉光も戦争画を描くように迫られますが、
「わしにゃあ、戦争画は描けん」と語っていたそうです。

靉光の「戦争画」

軍人や大砲といった「戦争画らしい」戦争画を描くことはなかったようですが、
靉光はかわりに《静物(魚の頭)》《鳥》《花園》など、
身の回りにある素材を使った静物画で戦争を表現しました。

戦争が激しくなり絵の具が貴重になった時期も
「描こうと思えば泥でだって絵は描ける」といって
絵の具の買いだめをしようとしなかったという靉光にとって、
周囲にあわせて戦意を高揚する絵を描くことは難しかったのかも知れません。

小さい「眼」の自画像連作

靉光は1944年に召集されて戦地に向かいますが、その少し前に
《帽子をかむる自画像》《梢のある自画像》《自画像(白衣の自画像)》など、
自画像の連作を描いています。

この3点はどれも斜め右向きのポーズで、体に対して頭が小さく
特に目が小さく描かれているという特徴があります。
(《梢のある自画像》では目の部分が塗りつぶされています)

土方さんは、《眼のある風景》であれだけ存在感のある目を描いた靉光が
自分自身の目を小さく描いた(または描かなかった)意味を
「よくよく考えてみるべき」だといいます。
土方さん自身は、外に向けられない目が
自分の内側・心の中に向けられているのではないかという解釈ですが、
人によってはまったく別のメッセージを読み取るかもしれません。

戦地での病死

義兄への手紙に「これでどうにか戦時下の男になれそうです」と書いた靉光は、
1946年1月19日に中国の上海郊外で亡くなりました。
遺族の元には戦病死の知らせのみが送られ、
戦後20年近くたってから遺品の飯盒が届けられます。

死因はマラリアとアメーバ赤痢ですが、
靉光の死を看取った人からキヱ夫人が聞いた話では
絶食療法の名目で食料を与えられなかったことによる衰弱死の可能性もあるようです。

時代の主流からは外れ、生涯絵と自分と向き合った靉光は、
のちに強い独自性をもつ日本の洋画家として高い評価を受けます。
享年39歳。生きて戦地から戻っていれば、
戦後の日本でまた新しい絵画世界を作り出したかもしれない画家でした。

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