日曜美術館「ルーブル美術館・美の殿堂の500年 〜革命とナポレオンのルーブル」(2021.11.14)

過去にBS8Kで放送された
「ルーブル美術館 美の殿堂の500年」(全4回)より第3回を再編集。
フランス革命後の「ルーブル宮殿」が「ルーブル美術館」として生まれ変わり、
ナポレオンによって新たな美術品がもたらされた時代を取り上げました

2021年11月14日の日曜美術館
「ルーブル美術館・美の殿堂の500年 〜革命とナポレオンのルーブル」

放送日時 11月14日(日) 午前9時~9時45分
再放送  11月21日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

ルーブル美術館を8K映像でたどる。18世紀末~19世紀初頭、フランス革命により王宮ルーブルは民衆の美術館に。英雄ナポレオンは、世界の至宝をルーブルに持ち帰る。イタリアからルネサンスの傑作「カナの婚礼」を戦利品として獲得、皇帝となった自らの姿を大作「ナポレオンの戴冠」に描かせる。そしてエジプト遠征によって、古代エジプトの至宝がルーブルにもたらされる端緒を開く。ルーブルが世界的美術館へ変貌した時代!(日曜美術館ホームページより)



ナポレオンの台頭と「共和国美術館」

18世紀末、フランスでは革命(1789-1799)によって国王一家が処刑され、
市民による政治が開始されました。
他のヨーロッパ諸国は自国で同じことが起きることを恐れ、
フランスと諸外国との戦争がはじまります。
そんな中、台頭したのがナポレオン・ボナパルト(1769-1821)でした。

国王の宮殿だったルーブル宮は、
1793年に「共和国美術館」として市民に開放され、
王侯貴族のコレクションが公開されるようになります。
ナポレオンは諸外国の美術品を戦利品として美術館にもたらしました。

アントワーヌ=ジャン・グロ《アルコレ橋のボナパルト将軍》1796

イタリア遠征中、アルコレ橋の戦いでオーストリア軍を破り
フランス軍を勝利に導いた、27歳のナポレオンの姿を描いた作品です。
軍旗を掲げて部下を鼓舞する姿は、
この後戦争で勝利を重ねて行くナポレオンの伝説のはじまりでした。

ヴェロネーゼ《カナの婚礼》1562-1563頃

もとはイタリアの修道院にあったこの絵画は
16世紀ルネサンスの傑作であり、縦7m×横10mとルーブル美術館でも最大の一枚です。
描かれているのはキリストが水をワインに変えたという奇跡の場面。
舞台は16世紀のベネチアとして描かれています。

華やかな婚礼の場面ですが、
中央のキリストからまっすぐ下がった位置にあるテーブルには砂時計が置かれ、
繫栄の中でも確実に移ろっていくときを象徴しています。
やがてキリストに訪れる受難を暗示するという砂時計は、
今となってはこれを持ち帰ったナポレオンの運命をも象徴しているかのようです。


ナポレオンのエジプト遠征と古代エジプトのコレクション

ルーブル美術館には6万点を超える古代エジプトの美術品が所蔵されています。
このコレクションのはじまりは、1798年のエジプト遠征でした。
ナポレオンはこの遠征に5万の兵のほかに170人ほどの学者を同行させ、
古代遺跡の調査を行っています。
かの有名なロゼッタストーンのほかにも、古代エジプトの神殿の遺構や
アメンヘテプ3世の巨大な像の頭部(前14世紀)などが美術館にもたらされました。

《書記坐像》紀元前26世紀-24世紀頃

国王の祈りを神々の文字である神聖文字(ヒエログリフ)で記録する書記の彫像。
胡坐をかいて膝の上にパピルスを広げています。
もとは右手にペンを持っていたのかも知れません。

《プトレマイオス朝のミイラ》(前4-1世紀頃)と《タヌテレレの棺》(前11-10世紀頃)

古代エジプトでは、魂が肉体に戻って永遠の生命を生きるため、
死者の体をミイラにして保存するという独特の技術が発達しました。
専門の職人が数か月をかけて完成させたというミイラの中には、
それ自体がひとつの芸術品と言いたくなるものもあります。
(お値段次第だったようですけど…)

布を巻くのは死者の体を悪霊から守るためだそうですが、
番組で紹介されたミイラなどは、巻きつけられた布が
模様編みのように整然とした文様を描いていました。

ミイラを収める棺も、それにふさわしく豪華なものでした。
神に祈りの歌を捧げた歌姫タヌテレレの棺は
生前のタヌテレレと思われる女性の形をしていて、
顔以外の場所は死者を守る精霊や神々、復活の象徴であるスカラベ(コガネムシ)、
冥界の神であるオシリス神とタヌテレレが対面する姿、
死者を守り永遠の命を与えてくれるように祈る文言などで埋めつくされています。


ナポレオンの皇帝即位と「ナポレオン美術館」

1803年に、共和国美術館は「ナポレオン美術館」と改名しました。
翌1804年、ナポレオンは肯定として即位。
この頃、美術館にはそれまで収集されていなかった時代の絵画が多く集められました。
全ての時代の美術を満遍なく収集した、世界的な美術館を目指したのでしょうか?

ジャック=ルイ・ダヴィッド《皇帝ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌの戴冠式》1806-1807頃

縦6m×横9mと、《カナの婚礼》に次ぐ巨大な絵画です。
ノートルダム大聖堂で自ら皇帝の冠を被った(通例では教皇から戴くものでした)
ナポレオンが、皇后ジョゼフィーヌに冠を授ける場面を描いたもので、
本来冠を授ける立場の教皇(ピウス7世)は、皇帝の後ろに追いやられています。
この構図には、皇帝が教皇の上に立ったことをアピールする狙いがありました。

この絵の中には(おそらく実際の儀式も)、
他にも象徴的なモチーフが組み込まれています。
皇帝の纏う白い毛皮に裏打ちされたマントは太陽王ルイ14世を示し、
腰につけている宝石で飾られた剣はフランス王家に伝わるもの。
冠のデザイン(月桂冠)は、古代ローマの皇帝を示していますから、
この意味を読み解くと
ナポレオンはフランス王家を引き継ぎ、
古代ローマの皇帝の後継者でもある…と、
かなり大きく出た感があります。

ナポレオンの首席画家だったダヴィッドは、
古代の英雄などを描く歴史画で知られた画家でした。

クエンティン・マサイス《金貸しとその妻》1514

クエンティン・マサイスはフランドルの人。
レオナルドダヴィンチやヤン・ファン・エイクの影響をうけ、
イタリア・ルネサンスと北方ルネサンスを融合したスタイルの
宗教画や風俗画を描いた画家です。

アントワープで描かれたこの作品は、
金貨の重さを量っている夫(両替商とも)と
手元で聖書をめくりながら真珠や指輪に視線がくぎ付けになっている妻という構図。
神を離れて世俗の富・欲望に捕らわれた人間の姿に加えて、
机の上にある望遠鏡には教会を指し示す人物の姿が映っていたり、
細く開いた窓の外には何かの忠告を与える人と与えられる人の姿が見えたりと
教訓を盛りこんだ仕上がりになっています。


ナポレオンの没落と「王立美術館」

1812年のロシア遠征での敗北をきっかけに帝国は崩壊しました。
1814年にナポレオンは退位し、エルバ島に追放されます。
フランスはブルボン家による復古王政がはじまり、
ナポレオン美術館は「王立美術館」となりました。
この時期にはナポレオン時代にはない芸術も追加され、
ルーブルの新たな歴史がはじまります。

私は何処から来たのか
私は何であるのか
その答えは私の思念を超えている。
私は己を知らない肉体に過ぎない

とナポレオンは言ったそうですが、
ナポレオンその人もルーブル美術館を構成する物語の一部と化している今、
「私は何であるのか」という問いには無限の答えがありそうです。

アントワーヌ=ジャン・グロ《エイローの戦場におけるナポレオン》1808

描かれているのは1807年、ロシアとプロイセンの連合軍に辛勝した時の様子です。
たった1日で死者5万人を出した戦いの後で、
雪原の上には兵士の屍が折り重なり、中心となる皇帝も疲れきった顔をしています。
ナポレオンが権力の絶頂にあった時代の絵なのですが、
この後の没落を予感させるような不吉な印象もあります。

ドミニク・アングル《グランド・オダリスク》1814

こちらに背を向けて寝そべる、オスマン帝国のハーレムの女性です。
背中がやけに長く(解剖学的にも椎骨が多すぎるんだそうです)、
腕や足もそれに合わせて引き延ばされています。
アングルはダヴィッドのもとで歴史画を学んだ画家ですから、
解剖学的に正しい絵を描けなかったわけではありません。
自分の美意識に従って人体をデフォルメして表現するアングルの作品は、
一つの時代が終わって新たな芸術が生まれる、狭間の時代にうまれたものでした。