大倉集古館 美術館に住みつく妖怪たちと建築家・伊東忠太

東京都港区虎ノ門にある
The Okura Tokyo(旧:ホテルオークラ東京)本館の正面に
向かい合うようにして立っている建物が大倉集古館です。
1927年に竣工したこの建物は、
2014年から約5年半かけての大規模な改修工事をへて
2019年9月、ホテルとともにリニューアルオープンしました。

この工事では建物全体を6.5m移動させて、ホテルとの間には
谷口吉生(1937-)の設計による水盤を設置。
谷口はホテルオークラの旧本館ロビーの設計を担当した
谷口吉郎(1904-1979)の息子で、
自らも The Okura Tokyo のメインロビーを手がけています。
また地下空間を増設し、免震機能もつけられました。

銅板葺きの緑色の屋根に白い壁、所々に赤を利かせた中国風の建物は、
創始者である大倉喜八郎(1837-1928)が収集した
日本および東洋各国の古美術を展示するのにふさわしいデザインとして、
中国の紫禁城などを参考にしながら考えられたものだそうです。

大倉集古館と、建築家・伊東忠太の妖怪たち

大倉集古館を設計した伊東忠太(1867-1954)は、
明治~昭和にかけて活躍した建築家(建築史家)でした。
1902年3月から1905年6月まで中国、ビルマ(ミャンマー)、インド、
さらに中東、小アジア、欧米を巡って仏教遺跡をはじめとする建築を調査し、
その形や様式を自分の作品に活かして独創的な建築物をいくつも残した人です。

この伊東を語るとき、必ず出てくる言葉は
「妖怪」「怪獣」「化け物」といった幻想の生物です。
日本建築会では一番の妖怪好き(二番はいるんでしょうか?)
として知られる伊東は、自分が設計した多くの作品に
外国の歴史的な建築物に住みついている神聖動物や怪物を取り入れています。

もちろん大倉集古館も例外ではなく、
建物と同じ中国由来の幻獣たちの姿を見ることができます。

吻(ふん)と龍…屋根と2階天井

伊東がプロデュースした妖怪のうち、唯一外からも見えるのは、
屋根の上にいる龍の頭と魚の体(獅子の頭に龍の体とも)をもつ生き物です。

大棟(屋根の一番高い、水平になった棟)の左右に乗って
尻尾をくるっと巻き上げている姿はシャチホコに似ていますが、
シャチ(鯱)の原型になった吻という生き物です。
この吻について伊東は

抑々鯱は何であるか、これは元来支那で想像された空想的動物で、元来蚩吻と称するのである。蚩吻は龍の九子の一で、性水を好むにより、これを屋上に置いて火災を禁厭したと云はれ、其の姿も半龍半魚の形にしたと解せられてゐる。
(『伊東忠太著作集』第6巻)

と語っていて、シャチとの違いについては特に触れていませんが、
中国の吻と日本のシャチとの大きな違いは
吻は大きく開いた口から建物の棟を吐き出している形をとることなんだそうです。
(藤森照信「不思議動物図鑑・解説」『伊東忠太動物園』筑摩書房,1995)

吻の姿はこのほかに、大棟から四方に下がる下り棟と、
2階展示室の柱上の軒を支える部分(斗栱)にも見ることができます。
(こちらは「マカラ魚」とも言われています)
2階展示室の天井には、漆喰のレリーフで
吻の親にあたる龍を正面から描いた図が表わされています。

獅子…階段とミュージアムショップ

1階展示室から2階展示室につづく階段の親柱
(階段の手すりの端や折り返し部分にある太い柱状の部分)には
5頭の獅子が座っています。
(ややつぶれ気味の可愛い顔だちです)

普通に座っているものと片方の前足で玉を押さえているものがいるので
わたしは「狛犬かな?」と思っていましたが、
伊東忠太は日本の狛犬を
インドの仏像の台にライオンの像を彫刻したものが西域・中国に伝わって
さらに朝鮮半島経由で日本に伝来したものと考えていたため(『木片集』1928)、
中国風の建物に住んでいる彼らは獅子で間違いないでしょう。
獅子のいる階段は集古館の入り口を入って左にあります。

大倉集古館は館内撮影禁止ですが、地下1階のミュージアムショップでは
この獅子をパッケージに採用したお菓子を買うこともできます。
グッズのロゴにも採用されているので、
ショップに立ち寄るときは獅子のマークを探してみるのも楽しいと思います。


パトロン・大倉喜八郎と伊東忠太の建築

大倉集古館を含めたThe Okura Tokyoの敷地は、
もともと大倉喜八郎の自宅だった場所です。
(ホテルオークラの創業は、喜八郎没後の1958年12月)
その喜八郎が収集した古美術をお客に披露するための
私設美術館としてスタートしたのが大倉集古館でした。
(当時の資産家が邸内に施設美術館をつくることはよくあったそうです)

1917年には財団法人化して、日本初の私立博物館となった大倉集古館ですが、
1923年の関東大震災で展示館が焼失してしまい、
伊東忠太が設計した現在の建物(1927年に竣工)は2代目になります。
もとは陳列館のほかに附属舎・回廊・六角堂・別館のある大規模な施設でした。

戦後の財閥解体とホテルオークラの建設にともない建物が整理され、
現在は陳列館のみが残っています。
1990年に都の歴史的建造物に選定、
1998年には国の登録有形文化財に指定されました。

大倉喜八郎は伊東忠太の代表的なパトロンで、
大倉集古館と同時期に
本館・持仏堂・望楼(通称:祇園閣)からなる
京都の別邸(1927)の設計を任せています。
本館と持仏堂は和風建築でしたが、
洛中を見晴らす祇園閣はその名のとおり
祇園祭の鉾が城の石垣の上に載っているという奇抜な物でした。

喜八郎は残念ながら、1928年の集古館開館式の直前に逝去し、
京都の別邸で過ごすこともなかったようです。
(文京区の護国寺にある大倉喜八郎の墓(1930)も伊東の設計です)


美術家としての伊東忠太

伊東はもともと建築ではなく美術家を志望していましたが、
医者の父親に反対されて、せめて芸術性のある分野に行こうと
建築を志したというエピソードが『伊東忠太自画伝』にあります。

父親を説得することはできなかったものの美術への思いは真剣なもので、
東京大学の建築史研究室に残っている肉筆の美人画(1884)からは
本格的な日本画修行の経験がうかがえるそうです。
(残念ながら、画業について詳しいことは分かっていません)

1889年に東京帝国大学工科大学造家学科に入学した伊東は
日本近代建築の先駆者である辰野金吾(1854-1919)の教えを受け、
辰野の師であるジョサイア・コンドル(1852-1920)の講義も受講していたそうです。

卒業後は東京美術学校で講師として教えるかたわら大学院に進み、
東京帝国大学工科大学の助教授を経て教授に就任。
間違いなくエリートコースですが、
西洋にひけを取らない洋風建築を日本で実現することを目標としていた
当時の建築学の中で、
日本をはじめとするアジアの歴史的な美術様式を
近代建築で表現しようとする伊東は、
王道からはだいぶ外れていました。

伊東の代表作は、デビュー作の平安神宮大極殿(1895)、
一番気に入っていたという不忍弁天堂天龍門(1914 東京大空襲で焼失)、
代表作のひとつとして知られる築地本願寺(1934)など
宗教建築やモニュメントが中心で、
当時の花形だった駅・銀行・商社などは得手ではなかったようです。

博士論文「法隆寺建築論」(1898)では
法隆寺が世界一古い木造建築であることを発見し、
法隆寺と古代ギリシアの神殿の柱の形が似ていることに注目して
日本の仏教建築をギリシアに由来する一連の様式の流れの中に
位置づけようとする一方で、
その後の「法隆寺再建・非再建論争」からは距離を置きました。
あくまでも美術としての建築様式に注目していたようです。

1920年に歴史主義的建築からの分離を唱えた
「分離派建築界」が発足したのを皮切りに、
合理性を追求するモダニズム建築が主流になるなかで
伊東は次第に「前時代の建築家」となっていきました。
(近年は再評価も進んでいます)

もと美術家志望だった伊東は、建築を通じて
自分の思う「美術」を実践しようとしたようにも見えます。
大倉集古館に出かける時は
建築もあわせて鑑賞してみると意外な発見があるかもしれません。


大倉集古館

東京都港区虎ノ門2-10-3

月曜休館(休日の場合は翌平日休館)
展示替え期間、年始年末休館

10時~17時
※入場は閉館の30分前まで

一般 1,000円
大学生・高校生 800円
中学生以下 無料
※展覧会によって異なる場合もあります
※ぐるっとパスの利用で入場無料

公式ホームページ