小野さんと柴田さんが、2022年秋にリニューアルした静嘉堂@丸の内を訪問。
館長の河野さんによると、静嘉堂のキーワードは「継承と創造・発展」なんだそうです。
2022年11月27日の日曜美術館
「曜変天目 丸の内へ 静嘉堂 夢の新美術館オープン」
放送日時 11月27日(日) 午前9時~9時45分
再放送 12月4日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
神秘の輝きを放つ曜変天目茶碗、俵屋宗達が源氏物語を描いた華麗な作品など多数の国宝・重要文化財を有する静嘉堂文庫美術館。この東洋美術の殿堂が今秋、東京・世田谷から丸の内の歴史的建造物・明治生命館の中に移転した。それを実現したのは、文化財を保存しながら活用するという新たな考えだった。そして丸の内に美術館を建設することは文庫創設者の100年越しの夢でもあった。美術館誕生秘話を至宝の数々とともに紹介する。(日曜美術館ホームページより)
出演
河野元昭 (静嘉堂文庫美術館 館長)
長谷川祥子 (静嘉堂文庫美術館 主任学芸員)
明治生命館のリノベーションと、大名物のリノベーション
明治生命館(1934)
静嘉堂文庫美術館の展示室「静嘉堂@丸の内」がオープンしたのは
東京駅から歩いてすぐの場所にある丸の内の明治生命館です。
1997年にこの建物が重要文化財指定されたとき、
所有者である明治生命と文化庁の間で、
貴重な建物を保存しつつ活用していく取り決めが交わされました。
そのために明治生命館は
アカンサスの装飾りがあるギリシア風の柱をはじめとする新古典主義様式の部分や
第二次世界大戦後に連合国軍の対日理事会(1946-1952)が開かれた会議室など、
保存するべき貴重な部分を残しつつ
生命保険会社の店舗としても現役で使われています。
このたび建物の1階に美術館が入ったのも活用の一環でした。
オフィスやカフェがあった場所に作られた美術館は
天井まで吹き抜けのホワイエを取り巻くように展示室が並んでいます。
もともと1階には竣工当時から残っている部分が多く、
美術館に改装する時には
美術品の搬入に使う出入口を拡張するために竣工当時の大理石を一度解体したり、
24時間空調のために天井裏に空調ダクトを張り巡らせたりと
大規模な工事が必要になったようです。
館長の河野元昭さんは、美術館とは良い作品を並べて多くの人に見てもらう
「質量主義」であるべきだと考えていて、
東京のセンターである丸の内への移転は理想への第一歩となります。
静嘉堂のコレクションを丸の内で展示するのは、静嘉堂文庫の創立者である
岩崎彌之助(三菱の2代目社長。1851-1908)の願いでもありました。
明治生命館と静嘉堂所蔵の国宝7点については、
以前の記事でも紹介しています。
大名物 唐物茶入 付藻茄子(13-14世紀、南宋~元)
室町時代に中国から伝わり、足利義満から松永久秀を経て
織田信長・豊臣秀吉(・豊臣秀頼)・徳川家康と、
歴代天下人の所有物になった大名物。
本能寺の変(1582)、大坂夏の陣(1615)と2度の動乱に巻き込まれ、
大坂夏の陣ではバラバラの破片になってしまいました。
名物を惜しんだ家康が塗師の藤重藤元・藤巖父子に命じて漆で復元させ、
その後漆繕いの技術を伝えるため藤元に下賜。
(この時救われた名物茶入は9点。そのうち《松本茄子》は藤巖に下賜されています)
経緯を記した由来書《付藻 松本茄子 拝領之次第》(1615)とともに、
藤重家の家宝として明治まで伝えられました。
岩崎彌之助は兄の彌太郎(初代社長。1835-85)から年末のお給料を前借して
付藻茄子(と松本茄子)を購入したといいます。
艶のある茶色の表面は、実は漆を塗ったもの。
2022年のはじめに撮影されたX線CTスキャンの画像を見ると
破片と破片の間を埋める漆の部分がかなり多く、
漆の中に破片が浮いているような箇所もあります。
粉々になった肩や首の部分は漆を塗り重ねて新たに作り直されたような状態で、
室町時代に作られた切形(破損する前の形を写し取った紙)とは違う形になっていました。
主任学芸員の長谷川祥子さんは、
安土桃山から江戸に時代が変わる中で人の好みも変化しており、
藤重親子はその時代に合わせたより良い姿を追求して
付藻茄子の形を直したという説もあると語っています。
復元したことによって技術の手本という新しい価値を付け加えられ、
さらに江戸時代の好みに合わせて生まれ変わった茶入の来歴は、
古い建物をリノベーションした静嘉堂@丸の内にも通じます。
琳派作品にみる継承と発展
静嘉堂は河野館長が「琳派美術館と言っても良いんじゃないか」と言うくらい、
琳派の作品が充実しています。
親子・子弟といった関係を超えて、前時代の優れた作者に私淑して受け継ぎ発展していく
琳派の美意識を感じられる作品が紹介されました。
尾形光琳《住之江蒔絵硯箱》18世紀(重要文化財)
蓋は山形に大きく盛り上がり、
全体に「すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ」と
藤原敏行の和歌(古今和歌集)を散らし、
「岸」と「浪」の字は省略して絵図で表現。
東京国立博物館が所蔵する本阿弥光悦(1558-1637)による国宝《船橋蒔絵硯箱》
(2022年10月23日の日曜美術館でも紹介されました)と共通点が多いのは、
この作品が光悦のデザインした硯箱を写したものだからです。
作者の尾形光琳(1658-1716)は
硯箱を収める箱の蓋裏に「光悦造以写之」と記し、
光悦へのリスペクトを伝えています。
酒井抱一《波図屏風》(1815頃)
こちらは銀地の背景に荒々しい墨の線で一面の波を描いたダイナミックな屛風です。
もとの注文は草花を描いた屛風だったのですが、
作者の酒井抱一(1761-1829)が光琳の屛風に触発されてこうなったんだとか。
「自慢の作だからぜひ受け取ってほしい」という依頼主に宛てた手紙が残っています。
抱一が影響されたのは光琳の《波濤図屏風》(1704-1709頃。メトロポリタン美術館)。
こちらは金地に波を描いたもので、これに限らず琳派と言えば金のイメージがあります。
静嘉堂が所蔵する俵屋宗達(1570-1643)の国宝《源氏物語関屋澪標図屏風》(1631)も、
源氏物語の男女のすれ違いの情景を金の背景に描いていました。
河野館長によると、金地は太陽の光を示すもので、
宗達や光琳は平安の美意識を受け継ぐ「陽光の画家」でした。
これに対して月光の光にあたる銀地の美を最初に発見したのが抱一で、
先達の様式を取り入れながら江戸の粋を表現したこの作品は
抱一が「江戸琳派の祖・酒井抱一」になった記念碑的作品にあたります。
静嘉堂文庫の東洋美術
河野館長は静嘉堂コレクションを象徴する存在として
国宝《倭漢朗詠抄 太田切》(11世紀)を紹介しています。
これは大陸から輸入された唐紙に日本で金銀泥で草花の下絵を描き、
その上に漢詩・和歌をそれぞれにふさわしい書体で書き写したもので、
素材・内容ともに日本と中国が入り混じっています。
太田切が表しているように、静嘉堂文庫のコレクションは
日本美術と東洋美術のバランスが良いのが特徴ですが、
東洋美術部門の充実には、岩崎彌之助の息子で三菱の4代目社長でもある
岩崎小彌太(1879-1945)の力がありました。
岩崎小彌太と唐三彩
展覧会の最後は、岩崎小彌太が収集した中国陶器が中心の展示室です。
(すべての展示室はホワイエにつながっているので、最後でなくても構いません)
河野館長が「まず見てほしい」と言うのは国宝の曜変天目…ではなく、
唐三彩の《三彩鴨形容器》(7~8世紀、唐)でした。
写実的な陶器の鴨は、清朝末期の鉄道工事の最中に出土したものです。
(線路になる土地の下に古いお墓があったのでしょう)
小彌太はケンブリッジに留学したこともあり、もとは英国趣味の人でした。
日本や中国の美術にもまったく興味がなかったのですが、
父彌之助のコレクションを保存・公開のために整理するうちに
東洋美術の素晴らしさに開眼したそうです。
西洋の感覚を身につけた小彌太は、
静嘉堂コレクションに新しい美の世界をもたらします。
その代表的な存在が、唐三彩をはじめとする鑑賞陶器でした。
この時代の文化人はほぼ例外なく茶人でもあったため、
茶席に使えない美術・工芸品は好まない傾向がありました。
唐三彩の主な用途は死者に捧げる副葬品ですから茶席には使えず、
当時は全く評価されていなかったそうです。
小彌太は実用的な価値にとらわれないファインアートとしての鑑賞を導入することで
当時の文化人が見落としていたものに光を当て、
父のコレクションに足りない部分を補強していきました。
避けては通れない曜変天目(12-13世紀。南宋)
絵葉書ひとつとっても全体の形を引きで眺める普通の絵葉書のほかに、
光彩部分をアップにしたもの、別の茶碗とセットにしたものと様々なパターンがあり、
最近はぬいぐるみにもなってしまった曜変天目。
当ブログではこれまでも静嘉堂の国宝を紹介した記事や
曜変天目を紹介する記事で紹介してきましたが、
やはり静嘉堂のコレクションを語る時に避けては通れません。
今回の日曜美術館でも番組の最後、大トリのタイミングで登場となりました。
日曜美術館の司会である小野さんと柴田さんも、実物を見るのは初めてだそうです。
(ちょっと意外!)
河野館長によると、曜変天目の光彩は「千変万化」というのにふさわしく、
今回は宇宙を思わせる青が際立つライティングが採用されていますが、
また別の照明や自然光などの下ではそれぞれ違った表情になります。
番組では光彩の美しさが際立つ展示室の姿のほか、
ひっくり返して釉のかかり具合や高台の端正な形に注目する、
なかなか見られない角度からの映像もありました。
またこの曜変天目は小彌太が「天下の名器を私に用うべからず」と言って
用いることがなかったエピソードでも有名です。
これについて河野館長は
「美術品とは個人のものではない」という感覚があったのではないかと考えています。
曜変天目が静嘉堂の所蔵となったのは1934年。
その16年後に制定された「文化財保護法」(1950)の定義では
国宝は「国民の宝」と定められています。
美術品を広く公開して人々の役に立てようと考えた彌之助・小彌太には
そのような、時代を先取りした感覚があったに違いないと館長は語っています。
とすると、岩崎家のコレクションを継承し次へ伝えていくのは
所蔵元である静嘉堂だけでなく、日本国民全員ということになるのかもしれません…?
「響きあう名宝―曜変・琳派のかがやき―」(静嘉堂@丸の内)
東京都千代田区丸の内2-1-1(明治生命館1F)
[前期]2022年10月1日(土)~ 11月6日(日)
[後期]2022年11月10日(木)~ 12月18日(日)
10時~17時(金曜日は18時)
※入場は閉館の30分前まで
月曜休館
一般 1,500円
大高生 1,000円
中学生以下 無料
※障がい者手帳の提示で700円(同伴者1名無料)